FAQ
よくある質問
Q:ベジタリアンは野菜しか食べないんでしょう?毎日野菜ばかり食べているのですか?
A:ベジタリアンというと、野菜しか食べない人と言う意味にとらえられがちですが、イギリスのヴェジタリアン協会によると、ベジタリアンの語源は英語の野菜を意味する【ベジタブル】ではなく、ラテン語の【VEGETUS】(ラテン語で活気有る・生命力に満ち溢れた)と言う語源から来ているそうです。日本では菜食主義者(菜食者)と訳されるのでヴェジタリアンが野菜だけを食べているという誤解を与えていますが、これはヴェジタリアンの実態を反映していない訳語です。つまり、ヴェジタリアンの本義は「健康で活力のある人」であり、「そうなるために肉食を避ける者」であるということで、VEGETUSとは、「動物を屠殺、もしくは傷付けて得られる食品」を食べない人々のことです。その思想をヴェジタリアニズム(vegetarianism)、 ベジタリアン主義といいます。ベジタリアンの食べ物は肉以外ですので、米、玄米、五穀(ひえ、あわ、麦…など多種)それに各種イモ類などの穀物類、豆類、海藻類、それに加えて野菜や果物などの種類などを入れると、動物とはちがってものすごく多い種類の食物があります。参照:ベジタリアンとは?
Q:肉を食べない生活を続けると、つかれやすくなったり力が出ないのでは?
A:肉を食べると力が出ると思えるのは肉に含まれる尿酸のためです。動物の老廃物の尿素と尿酸を大量に含んでいます。尿酸、別名尿酸化合物三酸化プリンは、カフェインや、尿酸化合物二酸化プリンと同じく、一時的に興奮しますので力が出たように思えますが、実は大量に筋肉を疲労させます。疲労と老化をもたらし活力を損失させます。肉を食べる方がつかれやすく、力がでなくなるのです。持久力は菜食の方が断然アップします。オリンピック水泳で4つの金メダルを取ったマレーローズ、マラソンのアベベ、カールルイス、テニスのナブラチロワ、陸上競技のモーゼスといった世界的に有名な多くのスポーツ選手が、人間が本来もっている能力を最大限に生かすために菜食主義を実践しています。
また、肉のかたまりは消化されるのに数時間かかり、刺激物も解毒されるのに同じくらいかかるのでエネルギー低下の原因となります。ミシガン州立大学の故L.H.ニューバーグ博士は、全体の25%が肉で占められた食事を与えられたネズミは、普通の餌を与えられたネズミよりも大きくなり行動も活発であることを指摘しました。ところが数ヶ月後、肉食のネズミは肝臓をひどく冒されてしまいました。肉類の摂取によるガン・糖尿病・心臓病・高血圧などは肉類を一切採らない人々よりも発生率が高いという事は周知のとおりです。
(参考資料:ニュースタート健康法 医学博士O.S.パレット「どうしてお肉を食べないの」より)
Q:肉食しなくても健康は守られますか?
たんぱく質が取れずに栄養のバランスが悪いから体に支障が来るのでは?
A:肉を食べたところで、私たちの体の中で効率よくたんぱく質になるわけではありません。動物性たんぱく質はアミノ酸にまで分解して、それをヒトのたんぱく質に合成しなければならないのです。
肉を加熱調理すると、たんぱく質が変性してアミノ酸が壊れてしまうことです。
その結果、いくら肉を食べても肝心のアミノ酸は摂取できないことになります。
たんぱく質のもととなる必須アミノ酸は穀物と少量の豆類で全て摂取できますので、肉食をしないほうが健康に生きていけます。
詳しくはこちら
Q:ベジタリアンが増える事によって食物連鎖にどのような影響を与えるのですか?
人間がみんな草食になれば地球の植物は全滅するのではないでしょうか?
A:このまま肉食を続けているほうが、穀物の生産量は増え続け、植物の全滅危機の可能性があります。
牛肉1kgを生産するためには16kgの穀物が必要です。
地球上には現在200億頭もの家畜がいますが、この数は世界総人口の3倍以上ですので肉の生産を減らせば穀物の消費も減り、またその分、発展途上国で飢餓に苦しんでいる人達にまわすと畜産で使われていた穀物分で途上国の飢餓を充分救えます。詳しくは肉食をやめたワケ「飢餓に苦しむ人々」をお読みください。
Q:犬猫などのペットとは違い、牛や豚などは食べるために作った動物なのでは?
A:日本では犬や猫を愛玩動物と思っていても、外国ではそれらを食べるものとして見ている国もあります。また、日本は馬やクジラやイルカを食べますが、外国から見ると、犬・猫を食べていると同等に残酷な事なのです。牛などはインドでは神とあがめられ、絶対に手をかけることはありません。イスラムを信仰する人は豚を食べません。
畜産動物に生まれようが、ペットとして生まれようが、どちらも同じ生き物には変わりありません。
国や考え方が変われば食べ物が変わるのに、全人類がどんな動物を食べて良いといったい誰が決めることができるのでしょうか?
国や地域の風習や地域によって異なる価値観、先入観の無い自然界のレベルから見ると、ペットを殺す行為と、家畜を殺す行為はまったく同じと考えられます。
A:動物肉は残すとかわいそうなので肉が好きな人にあげたりして食べています。
しかし明らかに身体に悪いと思える動物肉を他人にあげる行為になんだか疑問を感じてきました。
どうするのがベストでしょうか。
A:もしも自分の飼っている犬、仮に「ポチ」が肉片になって、お皿の上に載っていたら・・と具体的に考えてみると、ポチの肉片を自分は口にできるか?人がポチを食べるのを見て、どう感じるか?と考えると、どうしたらいいのか、一人ひとり答えがみつかるのでは・・と思います。
ちなみに、私は自分の手元に来たお肉やお魚は、基本的には土に埋めて、心の中で追悼の意を表しています。
肉は動物であって、食べるものではないと私は思うので、私は人に食べさせることはしないです。友達にポチを食べるようにすすめると考えたら、やはり友達に(もちろんポチにも、自分にも)申し訳なくないでしょうか?
Q:乳製品や卵は副産物なので直接命をもらうわけではないのに、なぜダメなんですか?
A:乳製品・卵の摂取は、ラクト・オボベジタリアン(乳・卵をとるベジタリアン)ならそれでもかまいません。しかし、需要を作る以上、動物たちに負荷をかけ、生まなくなったりとれなくなったりすれば殺されます。また動物性食品は健康上もよくないことがわかってきています。 ■乳製品排除のススメ
Q:なぜ もどき肉 があるのですか?肉に未練があるのなら肉を食べればいいのでは?
A:いずれ皆さんが菜食して、素朴になっていけばだれもがシンプルな精進料理に落ちつくのかもしれません。
しかし、現状はお肉やお魚を食べるのが好きな人も多く、なじみのあるメニューを食べ続けたいという気持ちがある人も多いわけなんです。
その方々が一気に質素な精進食に転換するというのは無理なので、もどき料理が重宝なのだと思います。
いろいろな価値観、いろいろな家庭事情、味覚の好みがありどんな人でも、少しづつベジに移行できるように、ということを考えているわけなんですね。
Q:クジラやイルカを食べる人はみんな、「イルカやくじらが増えすぎると魚を食い荒らしてしまうので海の生態系がくずれてしまう。そういう害獣は頭数を減らすためにも人間が捕って食べるのは正しいことなんだ」といいます。
イルカや鯨は本当に害獣なんでしょうか?
A:害獣とは害のある獣の事です。いったい誰が何に対して害をなしたというのでしょう。
生態系の中にいらない命などありません。
すべての生き物にとって唯一の害獣は人間です。
多種を圧迫して今日も絶滅させつづけ、森を焼き、海を腐らせ、空を汚します。
原子力や核兵器を作り、動物だけでは足りずに戦争と言う共食いを好みます。
人間に動物達を【害獣】と呼ぶ資格はありません。
Q.動物だって殺しあう。肉食獣は草食獣を殺して食べる。人が動物を食べるのは、食物連鎖の正しい行為だ。
A.人間を「万物の霊長」とか「神の生き写し」とか「理性的存在者」などと言う人がいますね。
まるで特権的地位を主張するような人もいます。そのような人が、ここで突然「根本においては同じ動物であり、なんといっても動物はお互いに食べ合う」と、いきなり動物に戻るのでしょうか。
肉食に関して、人間と動物になんら類似性はありません。
真性肉食獣は肉を食べなければなりませんが、人間は違います。
人間は豊かですから食べ物を選べますが、動物はできません。
人間は道徳的に振る舞えますが、動物はできません。
つまり人間は、道徳的に振る舞えない動物を
道徳的にお手本としてみることはできないのです。
Q:肉食がダメというよりも、工業畜産の形態に問題がある。したがって畜産はみんな自然農法にするべき。劣悪な環境で育てられた家畜はかわいそうなので、肉の値段が少し高めでも私は国産の自然農法で育てた家畜を食べるようにしていますので、問題はないと思っています。
A:確かに産業動物として生産させられた固体は愛情をかけられることもなく、劣悪な環境で育てられ、殺されるときまで外に出られません。それにくらべ、自然農法で愛情をかけて育てられた動物は、多少なりとも人間になつきます。ヤギや子牛が酪農家になついて愛を返しているという話もよく聞きます。大切に育てられてもその目的が食肉である以上、最後には産業動物として育てられた家畜と同じ食肉処理場に運ばれてゆきますので結末は一緒です。親とも思って愛した人が、自分を屠殺場へ送り込む。最期の瞬間、動物達は何を思って亡くなったでしょうか。まだ生きたいと願っている命を絶たれ、信用していた人間に裏切られる動物の哀れさを考えると、自然農法だから殺されてもよいという理由になるでしょうか。
Q:植物にだって命がある。動物だけ食べないというのは、おかしいではないか。植物も動物も平等にすべきです。
A:植物にも生命があります。感情もあります。
愛情をかければそれなりに育ち、憎しみを込めて育てた花はすぐ枯れると言う報告もあります。
でもリンゴをもぐように、鶏の首をしめあげて殺せるでしょうか?
トマトをもぎとるように鳥を殺せるのかどうか。
稲を刈るように牛の首を刈るのかどうか。
芝生を踏むのと小鳥を踏むのは同じ行為かどうか。
野菜を殺して食べているんだから動物も殺して食べていいのだ。
このように、本当に植物の命と動物の命が平等だとお感じになる方もいらっしゃるようです。
しかしほとんどの方が動物を殺すことは植物を採取することよりも抵抗を感じることが多いと思います。
それは動物は我々と同じ仲間だと感じているからではないでしょうか。
動物には我々と同じ、脊椎をもち、顔があり、動き回り、殺そうとすると激しく抵抗し逃げ回ります。
植物は地球上には動物よりも先に存在し、我々動物を育んでいます。
我々の吐き出す二酸化炭素を吸収し、我々に必要な酸素を生み出してくれます。
果実は動物の好む匂いや色や味を用意して食されることにより繁殖を試みます。
我々動物の糞尿や死骸は土となり、植物の栄養となります。
動物は人間の食物ではなく、我々と同じ植物に育まれている仲間であると考えられます。
Q:動物達に成仏してねと思いつつ、残さず食べてあげるのも供養かと思うのですが?
A:もちろん、すでに殺されてしまった動物達を粗末にするのは、とんでもないことです。
でも、もう1歩踏みこんで考えてみませんか?
殺人犯が、『殺すけど、あとでちゃんと供養するからいいでしょう』と言って、世の中がゆるすでしょうか?
残された遺族は、納得するでしょうか?
私達は肉を食べなくては死ぬというわけではないのですから、供養するくらいなら始めから殺さないのがよいのでは?
Q:動物にはカルマがあり、人間は動物を食べる事によってその動物のカルマを解消してあげているのでは?
A:もしそうだとしたら、畜生界の食物連鎖に人間が参加していると言う事になります。畜生と同列なわけです。これはマハトマガンジーも言っています。
そして、殺して食べてカルマを解消してあげても、間違いなくカルマを背負うことになります。
もし、殺す事によって相手のカルマを解消する事を善の行為とするならば、
地下鉄サリン事件で有名なオ○ム教の『ポアしなさい』という行為を認めることになります。
(教祖:麻原彰晃がとなえる救済計画として毒ガスやサリンなどを撒き、無差別殺人を行った。ポアの意味は悪業を積んでいる場合はそれ以上積ませないため殺害するという麻原彰晃の説法)
Q:お肉を食べる時、感謝して食べていますので問題はないと思いますが?
A:動物に何かしてもらったならば動物に感謝をしなければなりません。
しかし動物からは強引に命を奪っているので(動物が自殺のごとく食べられるために献体したのではありません。)何かを強引に奪ったものは罪になります。
命を奪ったら感謝ではなく、謝罪または懺悔でしょう。
Q:お肉は感謝して食べます。ぜったい残しません!!
A:殺された動物を感謝して食べ、残さないことがその動物のためになると信じて疑わない人が多いようですが、おかしな道理です。
あなたの可愛がるペットが死んだときも火葬のかわりに感謝して食べることができるでしょうか?
家畜たちも、ペット同様、感情のある血の通った生き物です。
あなたが食べれば食べるほど産業動物は生産されます。産業はあなたがたのニーズに答えるために一生懸命生産性を重視した経営に走ります。そのため人工授精や早く体を作るために不自然な餌(草食動物に肉骨粉を与えるなど)を与えられ、狭い畜舎で薬物投与といった倫理観のない非道な命の扱いのやりかたを、あなたが肉を食べれば食べるほど、ますます助長していくのです。
Q:動物と人間は違う。
A:動物は血の通った体を持ち、性格を持ち、殺される恐怖もあり、屠殺(とさつ)される時は激しく抵抗し、涙を流して泣きます。屠殺された牛や豚の死体は人間の死体となんら変わりがありません。あきらかに人間に近しい生き物です。
Q:自分ひとりが肉食をボイコットしたとてなんの力になろうか。
A:私も肉食の時はそう思っていました。
しかし、一人の人間が肉食をやめれば、年間80匹の動物が屠殺されずにすみます。またそういう行動が、まわりの人たちの気づきのきっかけともなるかも知れません。そしてそれがある一定の数に達した時、猿の芋洗いのように(下記※参照)世界がかわってゆきます。そしてそれは地球や生命への影響力は大きいのです。
※猿の芋洗い現象
ある所で1匹の猿が芋を海水で洗って食べて見ると美味しかったのでその食べ方を真似して島中の猿に伝わっていきました。それがある一定の数に達した頃、何万キロも離れた猿の意識に伝わり、遠く離れた猿が、芋を海水で洗って食べるという異例の行動をしはじめました。生科学者ライアル・ワトソン「ある群の個体が新しい行動や文化を受け入れる。そして、その数が群の一定数を超えると突然他の群にもその行動や文化が伝わり広まっていくのだ。」これは潜在意識の中で他の生命体とつながっていると言う事を証明しています。
Q:自分は毎日あえぎ苦しみながら人生を生きていて、食べる自由までうばわないでほしい
A:いま飽食の時代に食べる事でストレスを発散している方が多いですが、この体は過去食べたものの蓄積の結果です。太る食べ物ばかり食べる人は太っており、肉食する人は気分、コレステロール、屍肉特有の悪玉菌発生によるさまざまな成人病、ガンなどの原因を作ります。食生活(たべ方)もまたその人自身の気質を表しています。厳格に食べ物を選ぶ事は自分を大切にする(自分を愛する)ことにもつながります。イライラするからたばこを吸う、むしゃくしゃするから肉を食べる、では人生の課題を置き去りにして一時的な逃避にすぎないと私は考えます。また、本心から理解するまでは禁煙もむずかしいように、肉食も本心から考え直して理解することが必要だと思います。
Q:ペットを飼っています。ペットも菜食主義にさせるべきでしょうか。
A:動物は、人間のように善悪の判断ができず、ただ自然の本能に基づいて行動するので、動物に責任ありません。ですので私の場合は、動物の生態は尊守しています。
ただ間違いやすいのは、だから人間も肉食をしても良いものなのだと思いこみやすいところがこの問題の隠れたメッセージです。
猫は猫の食べ物があり、ライオンはライオンの食べ物を食べたらいいと思います。猫が肉食するから自分も肉をたべていいのでは?と言うことはおかしいですよね。 自分が菜食だから愛するペットのライオンにも菜食を・・と言う人はペットを飼わなければいいと思います。(ペットの種類によってはエサを間違えると死亡します。)
私達のように猛獣ではなく、進化してきた人間、しかも、未開の土地ではなく肉以外にも食べ物があふれている状況になってきた私達にとって、とどめのない飽食による肉食は、体内だけではなく、地球規模でのなんらかの形でしわ寄せが来ると言う事を知っておかねばなりません。
Q:ベジタリアンは紙を使うのもやめてください。ガソリン使うのもやめてください。そうでなければ菜食主義っていうのは偽善だな
A:もしベジタリアンが偽善なら、肉食者のことはなんと呼べばよいのでしょうか?
私達は皆、他に迷惑をかけなければ生きてゆけない存在です。
その「迷惑」を、少しでも減らせれば・・というのが菜食者の心です。
質問者さんのように、肉食を否定するならば虫も殺すな、道も歩くな、生き物たちの生活を奪って、バイクや車、電車に乗っているならアスファルトの上を歩くこともするな、偽善め。と言う方が本当に多いです。
そのような議論は、英語でいう『all or nothing』。(すべてやる、それが無理なら何もやらない)・・・極論です。
それに対して、私達ベジタリアンの考え方は、『better than nothing』。(なにもやらないよりは、まし)という考え方です。
Q:私はお肉も魚も頂きます。ただ、無駄にはしない。絶対残さない、感謝して頂く。
それは、私たちの血となり肉となり一緒に生き続けていくことになると思うのです。
A:肉食は健康によくないことは周知のとおりです。人間が昔に行っていた古代人肉は原始的な心理に基づくもので、肉を食べることによってその肉の持ち主の力と健康が得られると信じていました。今日このような迷信を信じている人は少ないですが、肉食だけは悪習として残っています。ほとんどの人は肉を食べます。肉を食べる人は、食べつづけていたいのです。それが罪も無い仔牛を殺戮してできる肉であるのはわかっていながら、体ではなく心が肉を求めるのです。そもそもどうして肉を食べるのでしょう。単なる味のためです。地球を破壊して、たくさんの命を踏みつけ苦しめて、自分も不健康になってでも肉を食べたい、そういう人が食べるものです。そして肉も麻薬と一緒です。どうしても食べたいエゴのある人は、害に気づかないふりをして、議論にも耳を貸さずに死肉をむさぼりつづけるのです。
人間は何千年もの間、肉食をしてきました。太古の人間にとっては肉食はたしかに自然で、必要な事でした。なぜなら人間もまた、狩りをしくじれば他の動物に食べられる、ほかに食べ物の選択の余地の無い、自然の一部だったからです。
けれど現代では、人間はとうに自然を捨てています。不自然な形での土地開発や都市生活をするようになり、自分たち独自の法律まで作りました。
他にいくらでも食べ物がある、他の食べ物のほうがより健康になることがわかっていながら、集団意識の中にはいまだに以前の力関係、「強者の権利」が生きています。
他者を殺してその肉をすする行為に、狡猾な言い訳を与えています。
人間が文明化して都市生活をするのが誤っているのだから肉を食べてもいい、などという人がいるなら、そういう方こそ森に戻るべきでしょう。森で狩りをして、命の危険と向き合いながら、野生生活をすべきです。
現代のシステムキッチンでは、たくさんの家電が待機していて、動物の死体を一ヶ月間新鮮に保ち、スイッチひとつで調理できるようになっています。こんな快適な室内でゆったり座りながら肉食に関してだけはいきなり太古の「食う、食われる」の原則を持ち出すなど、滑稽な話です。
Q:私には小さい子供もいます。このようなことを見せて、肉を食べなくなったりしたら将来的に不幸になると思うのですが。
A:子供には選択権を与えてあげないのですか?
人間ははじめから肉をたべていたのではありません。
子供の頃のことを思い出してください。絵本の中にかわいい牛さんや豚さんがいました。
生きて笑っていた彼らが、皿の上の肉片と同じものだと知ったとき、ショックを受けませんでしたか?そして、「食べたくない」と言い、親に叱られたことはありませんでしたか?
「人間じゃないものは殺して食べてもいいのだ」と。
これが種差別の出発点です。
皿の上の事情が理解できたとき、それでも食べたいと思う人は稀です。
なのに親や社会に教育されて殺すことに慣れていきます。
正常な感覚が麻痺していくのです。
自分で残酷な道を選んだのでなく、そう教育されてきたのです。
種差別の根元にあるのが肉食です。自分の楽しみのためなら動物を殺してもよい、ということを許してしまえば、毛皮も闘牛もただのストレス解消で犬を殴り殺すことも、すぐそばの延長線上にあります。
生きている動物や魚を殺して肉にする段階を見せて、子どもが嫌な顔をするのは自然なことだと思います。
その気持ちを殺して肉に味付けをしむさぼりつくほうが不自然とは思いませんか?
Q:肉食を非難することは屠殺場で働いている人を非難しているのと同じです。肉食業界が滅んだら彼らの仕事はなくなってしまいます。
A:食肉産業の人たちが失業するから肉を食べなければいけないというわけですね?
そういうことを言う人は、タバコの害についても言ってはいけません。
タバコ産業で働いている人が職を失う恐れがあるからです。
Q:わたしひとりが肉食をやめても、多くの人々は肉を食べ続けます。わたしひとりがつらい思いをして菜食になったところで、たいした意味はないでしょう。
A:どこかおかしな論理です。この世界では毎日のように何千という人間が殺されたり飢え死にしたりしているのだから、仮に自分が誰か一人の人間を殺したとしても、たいしたことではない、と言っているのと同じです。他人が殺人をしているからといって自分も人殺しになってもいいのでしょうか。
菜食主義もまたひとつの自己表現です。ただ味だけのために動物を虐待して殺すのは間違っている、という心を表現しています。他人の心を変えることは出来ませんが、そんなあり方もあるということを周囲に伝えることはできます。
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