私が菜食になったわけ
「わたしが菜食になったわけ」 Asako.K

一 なぜ菜食か

若い子(というか同年代…)の肉好きが不思議です。
「焼肉食べに行こう」は人が喜ぶ代名詞みたいに言われているし、彼らが言うには、
なぜか分からないけど時々無性に肉が食べたくなったりもするそうです。
肉を食べないとイライラする、というのも聞いたことがあります。
恐らくそれが普通なのでしょう。私の家族も普通に肉を食べます。私は一般的な家庭、一般的な環境で育ったと思うのですが、なぜ家族でも私一人がそうなってしまったのでしょうか。

 まず菜食の考えを持つきっかけとなったのは、動物愛護の観点からです。私たちにとって馬はとても身近な存在・・
それは高校時代の馬術部での経験が大きく関わっているような気がします。
馬に乗るだけでなく部員には馬の世話も大きな役割だったので、休日にも持ち回りで厩舎に通い、ボロ取り(フン拾い)やチップ換え(馬のお部屋にしきつめているおが屑を取り替える)、シャンプー、時には怪我の看病などもありました。(と言っても看病なんかは学生に任されるのはそうそうないですが。)

彼等はブラッシングすると気持ち良さそうな顔をし、ひっかかってひっぱったら痛いと言って怒るし、人間が後ろに回ると恐がったり、下手な人がぐずぐず乗ってると嫌そうな顔して落とそうとしたりなど、私たちと同じように感情豊かです。私たちにとって馬はとても身近な存在で、愛情をもって接していました。そして、そのような馬を食べられなくなった事に端を発し、牛や豚に展開していきました。そして、菜食の実践は、親元を離れすべて自分の食事は自分で用意するようになったことで可能となりました。

 また、以前から関心のあった地球環境問題の視点からも肉食の及ぼす悪影響は甚大であることを知るなど、勉強するにつれ次第に菜食に対しての考え方はしっかりとしてきました。そうは言っても、まだまだ、知らないことがたくさんあります。私は今大学院生で、自分の研究はこれとは別のところにあるのですが、正直なところ、動物とか菜食とかについて勉強したり考えたりすることが、今、私の一番したいことです。そういうこともあって、ここで書くような思想についてはなかなか表立っては言えません。

 人が肉を食べるのは、まずそれがおいしいからというのがあります。私もそれは実感と
して分かります。また、家庭や学校では半強制的に肉を食べさせられ、大人になります。
では、なぜ動物を食べることに疑問を抱くことなく笑顔で食べられるのでしょうか。

 それにはまず、日本に肉食の文化をもたらした欧米のキリスト教の考え方があります。
「人間は神の像の通りに造られ、地上を支配する使命を帯びて造られた存在だが、動物は
、人間によって支配され、食糧にされてよい」という教えです。(「肉食の思想」鯖田豊之著 中公新書(欧米の肉食習慣の自然的、歴史的、社会的分析))

 次にデカルトの思想です。懐疑の結果たどり着いた「我思う。ゆえに我あり。」という彼の哲学の第一原理で説かれる「我」は、魂と同義語です。人間の体も、動物の体も精密な機械である点は似ているが、人間は魂を持っているのに反して、動物は魂を持っていない。そして、意識や感覚の主体は魂なので、動物は意識も感覚も持たない、たんなる精密機械に過ぎない。だから、動物は苦痛を感じない。と彼は考え、この考えによって人は肉食への罪悪感は払拭されるだろうと言っています。

 現代に生きる私たちの知識では、キリスト教もデカルトも、その動物観については明らかに事実に反している事は知っています。しかし、現代人が抱いている動物観の根底には、本質的には、これらの思想と同じように、人間と動物の間には断絶的な価値の差があり、その苦痛も顧慮するに値しないという価値判断が働いていて、肉食は許されるという暗黙の了解があるのでしょう。

二 肉食の弊害と菜食

簡単に3つ挙げるとすると、

1、肉食によるエネルギーの膨大なる無駄

2、温暖化と森林破壊

3、動物たちの苦痛
          があります。

簡単に言うと家畜にトウモロコシ等を食べさせてその家畜を食べるより、直接トウモロコシを直接トウモロコシを食べたほうが・・・食べた方がエネルギーの節約になる、ということです。牛肉に含まれる1kgのタンパク質を得るのには、大豆に含まれる18kgのタンパク質が必要です。これは単純に考えて18倍のエネルギーを無駄にしていることになります。日本において、家畜に与えている穀物の量は日本人が生きていくために必要な穀物量の倍量です。それだけの穀物を、肉食べたさのために無駄にしていると言えるでしょう。しかも家畜用穀物は全て輸入です。これを世界の飢えで苦しんでいる人たちに渡すことができたらどんなに救われるでしょうか。

家畜の出すメタンガスは温暖化の要因となっており、アメリカでは牧畜が水質汚染の第一の原因となっています。

牛も豚も鶏も、家畜動物たちは、一生を暗く狭く密閉された檻の中に閉じ込められ、心身を病んでいます。その解決法は、動物舎を改善することではなく、絶え間なくホルモン剤、食欲増進剤、殺虫剤、抗生物質などを投与し体を薬漬けにすることです。ストレスによる尻尾の噛み合いを防止するために、歯と尻尾を切り落とされる子豚、ひなのうちに嘴を切断される鶏。牛も豚も肉質を柔らかくするために麻酔なしで去勢されます。屠殺場へ行く動物たちはそれは嫌がって叫び声をあげたり逃げ出そうとするそうです。動物たちは誕生から死まで、苦痛に満ちた短い生涯を強いられています。食肉は大量繁殖の為に100%人口授精させられています。最近は、利潤追及をめざすクローン動物の研究など、遺伝子レベルでの生命の改変が進められています。生命としての全ての尊厳が奪われ、商品としてしか扱われていないのです。あまりにもむごい現実です。

 動物を食べる人はこれらのような事実を知っているのでしょうか。食卓あるいはスーパーに置かれたきれいな肉と、生きていて感情も持っている動物たちとを、同じだと認識しているのでしょうか。知らないだけか、あるいは分かってて目をつぶっているのでしょうか。

三 周りへの呼びかけと、現実

 私は、環境問題や肉食への意識の如何は、往往にして知識の問題だと思い、現実を知らせ、打開策を打ち出せば人の意識は変わると考えていました。身近な人からと、地道に友達や知り合いに話したりしていました。また生協に頼み、生協発行の冊子に環境ページを連載させてもらったりなどとしてました。説明は分かりやすさを心がけ、本当に些細なことを提案してきました。しかし、そうやって呼びかけたりいくら熱く語ってみても、意外なほど反響もなく、またその後の人たちを見ても影響は殆どと言っていいほど見られませんでした。悲しいことに私の期待は無惨にも崩れ去ってしまったのでした。

みんなに呼びかけて 人は生きてきた過程が全く違うから、同じ気持ちになることはありえません。みんな違う、そのことは分かっています。また私もあまりえらそうなこと言えるような人間でもなく、私が余暇に楽しんでいる趣味も、極力気を遣っているつもりではいても所詮”つもり”であって、地球に悪い影響を与えていることは事実です。それどころか、そもそも生きるためだけの最低限のもので暮らせればいいと思ってもそうする勇気もなく、趣味のものにお金を使ったり、甘いものも大好きで無駄に食べてしまったりもしています。それなのに、日常の中の節々で、動物が、地球が、かわいそうと感じ辛く思っている自分は偽善者なのかとも思います。

 こういうことに罪悪感を感じるのも、自分が生きているから、それも先進国に生きているから、出来ることです。先進国のせいではあるけど、その罪は先進国の人がかぶるべきだと思います。自分の親たちが築いてくれた暮らしやすい生活の、陽の部分だけでなく陰の部分も引き継ぐことは、楽に暮らしている自分たちの義務だと思います。途上国の人は環境問題はおろか絵を描くことすら、余裕がないですから。

 しかし、先日、真面目に話していて、私の言うことは所詮きれいごとである、自己満足なだけであると、批判されることがありました。熱くなっている人はその他のことに目を向けられないで一義的にしか考えられない子供だとも言われました。私の提案・呼びかけは、相手のことを思い遣ってない、全く自分勝手な押し付けだと。そういうのは自己満足なんだから、自分の中だけで思ってるに留めなさい、人に強く言ったりするのはだめ、人に対する思いやりや配慮が足りないよ、と。私の行いは私の為にしかなっておらず全く動物や自然の為にはなっていなかったのでしょうか。そう考えるととても辛く、やりきれない思いでいっぱいになりました。

 具体的には冊子には

「自然に親しむためのキャンプで使い捨て容器を使って、自然を汚して、これに対してどう思いますか」
「家庭排水の汚染(しょうゆをこれだけ流すと魚が棲める清水にするのにこれだけの清水が必要)」
「割り箸は間伐材と皆伐材とがあって、間伐材はいいが皆伐材にはこんなよくないことが!」
「洋服など繊維もリサイクルできる、捨てないで」

などなど、小学生にも読めるくらい簡単な表現を心がけて、このようなことを書いてました。
身近な人にも、このような身の回りの小さなことを言ってきました。それはよくないことだったのでしょうか。
私の思想を押し付けていたことなのでしょうか。
私としては、「ポイ捨てやめよう」という看板と同じレベルだと思ってやっていました。
「ポイ捨てはやめて」と言われて、「そんなこと言わないで。貴方の考えを押し付けないで。」と憤慨する人はいるでしょうか。まずいないでしょう。ポイ捨てがいけないということは皆分かっているからです。それなら、どうして「しょうゆを出しすぎないで」というのはダメなのでしょう。
どちらも環境負荷がある、という点では同じです。その境界線は一体どこにあるのでしょうか。
その主張がただ市民権が得てないからというだけではないのでしょうか。

 問題の最も効果的かつ確実な解決となるのは「人間への」でなく「地球(動物)への」感情(思いやり)や罪の意識だと思います。それがないと根本解決にはなりません。ですがそういった、「思想」は、ある意味宗教的です。それならば全員にそれを期待することは結局は無理なことだと諦める他はないのでしょうか。

 私の思いは自分の中だけに留め、人には要請しない、一人で悩み続けなければいけない、ことなのでしょうか。でも、この問題ばかりは、自分だけではどうにもならないことなのです。周りの協力あってのことです。一人より二人、二人より…そうやって、例えば醤油は余分に出さないようにするとか、小さな小さな行動だとしても、学校の人全員でも、小さな行動は大きな行動になります。私一人しかこれをやっていなかったら、努力空しくやっぱり地球にとっては何にも変わりません。

 批判され、その内容に納得できる部分もありました。私の考えも、まだ迷いもあり発展途上です。いっそ諦めてしまい、こんなこと考えずにすめばどんなにか楽でしょう。けれど、これは思想とか、自分の心の中だけで、とか、どうしてもそういうレベルの問題には思えないのです。理想の実現は不可能とあきらめて何もしないよりも、どれほど小さいことでもよいから自分にできることから始めることのほうが、はるかに価値のあることだと思います。人には快適に生活していくうえで譲れないところもできないこともあるだろうけれど、先進国に生まれた私たちはその中でも自分のできることを探して、小さなことでもやっていこうとしなければならないと思います。

参考文献

1)「食の思想」鯖田 豊之著 中公新書

2) 「地球生物会議 (ALIVE)」  http://www.jca.ax.apc.org/alive/index.html

3) 「動物実験を考える」 野上 ふさ子著 三一書房

4) 「ベジタリアンの健康学」 蒲原 聖可著 丸善ライブラリー
(医学的、栄養学的にみたベジタリアンフードの勧めについて書かれています。とても面白いです)

5) 「BONVENON,SALUTON KAJ DANKON」  http://www3.vc-net.ne.jp/~kubu/ 
(エスペラント語のページ)

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