食材知識と応急処置
●野草の威力
私達はいつの頃からか、太陽の恵を十分に受けない促成栽培(清浄栽培)の野菜を食べるようになりました。 ただ形の良い、癖のない、ビニールハウスで育った「おとなしい野菜」ばかりを食べて、それが野菜だと信じ込んできました。 生産者は促成栽培で成長期を早めたり、清浄栽培で野菜そのものが持つ癖や、アクを取り除き、現代人の口に合うように、非常に食べやすい、口当たりの良いものだけを生産し、こうした事が太陽の恩恵を受けない野菜を登場させる元凶となりました。こうした野菜は、エネルギー的にも「弱い野菜」です。そして野菜本来の特異性を失っています。 さて、健康を維持していく上で、野菜はむしろ食肉より、大きな重要性を持っています。 精神的、肉体的、社会的に健康な人は、微妙に変化する時代の流れによく適合し、環境の変化に適応しうる力を持っています。 しかしこの適合し、あるいは適応する力のバランスが崩れると、人間は病気になります。 また、病気とまでは行かなくても、躰が何となく重くて疲れやすい、倦怠感に陥りやすい、食事がつい不規則になって濃厚な味ばかりを好む、飲み過ぎという不摂生を繰り返している人も少なくありません。その結果、便通がよくない、夜睡れない、頭痛がする、というような生活習慣病の要因を強め、いわゆる不定愁訴の状態に陥っています。 カルシウム不足や運動不足で、イライラがつのり、精神的にも不安定になって、ストレスが知らず知らずのうちに堆積され、精神と肉体のバランスが崩れる心身相関病が増えています。 こうした情況の中、厚生労働省は旧態依然とした「栄養に関する疾病予防」を打ち出していますが、この中の、どれ一つとして役に立つものはありません。 最もナンセンスなものが、「蛋白質は十分に摂取せよ」とあり、動物性食品と植物性食品を半々にとれと言うものです。 こうしたナンセンス的パロディーを順に挙げますと、油や脂肪類は多過ぎても少な過ぎてもよくないが、油を使う場合は植物性のものを使い、動物性のものを避けよとあります。 更に続けますと、炭水化物や糖類の摂取を少なくし、澱粉や繊維質の割合を多くせよ。ミネラルの摂取に心がけよ。特にカルシウムは十分に摂れ。ビタミンも同様に、と勧告しています。 しかし今日の加工食品の中に、果たしてミネラルやカルシウムは十分に含有されているのでしょうか。 牛乳一つ挙げても、乳牛から牛乳を搾(しぼ)り、その殺菌消毒のために高熱による加熱が加えられています。これを「ウルトラプロセス加熱処理」と言います。 この高加熱処理で牛乳内の乳酸菌は殆ど死滅します。 またカルシウムが豊富だと言っても、運動をしなければ、これは体内に取り込むことが出来ません。 そして忘れてはならないことは、急増するアレルギー体質や白血病は、実はこの牛乳が原因であり、牛乳は人間に不向きの食品です。 その証拠は、乳幼児や小学生児童に見られ、学校給食の牛乳が輪を掛けて、骨の軟弱化と、虚弱体質児を増加させていることからも窺えます。 ウルトラプロセス加熱処理によって滅菌された牛乳は、乳酸菌が既に死滅してしまい、残りの牛乳成分に含まれる殆どは燐蛋白質であり、その大部分は人体に不要なカゼイン(Kasein)です。この物質は牛乳の燐蛋白質の80%を占め、酸を加えると凝固沈殿が起こり、本質は酪素や乾酪素と言われるもので、接着剤や織物仕上げなどに広く用いる物質(一部はチーズの原料にもなっている)で、人体に吸収されると、アレルギー反応を引き起こします。 またミネラル組成も人体向きではなく、牛乳を新生児や乳幼児が飲むと、水分・電解質代謝の混乱が起こって、水膨れ状態が発生し、歯や骨が脆くなります。 更に恐ろしいことは、ウルトラプロセス加熱処理という高熱滅菌処理によって、本来の牛乳そのものには存在しなかった蛋白質異変が起こり、乳糖そのものは乳酸菌を増殖させる力を失っています。 多くの日本人は、牛乳内の「カルシウム神話」を安易に信じ、牛乳さえ飲んでいればカルシウムは豊富に摂れ、骨太になるという希望的観測を抱き続けました。今も、その延長上の意識の上にあり、多くの日本人は、いつの頃からか安易に、牛乳神話を信じるような思考に洗脳されてしまったのです。 本来、カルシウムは動物性脂肪からとるよりも、野草などの「ヨモギ」(蓬/キク科の多年草で山野に自生。高さ約1mで葉は羽状に分裂、裏面に白毛がある。秋には淡褐色で小形球形の頭状花を多数穂状につける。葉に香気があり、若葉を餅に入れ、成長した葉は灸きゆうの「もぐさ」とする)からの方が豊富であり、他に例を挙げるならば、海藻類や小魚類の方が良質であり、人間は必ずしも牛乳を飲まなければならないという理由が存在しません。 したがって、新生児や乳幼児が飲む母乳や粉ミルクと、ウルトラプロセス加熱処理という高熱滅菌処理した牛乳とは、はっきりと区別すべきです。 さて、現代人の病気予防あるいは健康増進には食の改善が必要であるにも関わらず、この「改善」の提言に対して、何一つ具体的な助言は行われていません。 昨今急速に言われ始めた「野菜を摂れ」という提言においてですら、その具体的なものは何一つありません。肉食の反動から、ヒステリックに「野菜を摂れ」と言っているだけのことであり、若い女性の中で人気のある生野菜の野菜サラダにしても、こうしたものばかりを食べて貧血状態になる例が多発しています。 では、ミネラルやカルシウムを含むと称されている野菜を食べて、何故貧血になるのでしょうか。 この理由は簡単です。 同じ野菜でも、日光を十分に浴び、盛んに光合成をして、大地に大きくたくましく根を張って育った植物と、ビニールハウスで土を遣わない清浄栽培という方法で育てられた植物とは、全くその品質も、植物そのものが持つ薬効的な要素も、栄養価も自ずから異なるからです。 そして「現代栄養学」という欧米の学問が出てきたため、従来の野菜は「食性野菜」と「野草」(野山に育つ山菜など)とに区別されてしまいました。前者は現代栄養学で言う「野菜」という定義で、後者は野菜という定義はなされていません。 そして後者は、現代栄養学の立場から敬遠され、八百屋の店頭から一斉に姿を消すことになりました。 八百屋や、スーパーの野菜コーナーで売られているものは、形の良い、口当たりの良い、野草に比べて癖のないものが中心であり、総て季節感を無視したビニールハウス育ちの清浄栽培です。 現代のこうした農業の実態は、季節を問わず安定した供給をなすというのが農業企業の第一の主旨で、植物が太陽の光を浴びて、その恩恵を受けるという「光合成」の働きを、根底から無視したものです。清浄栽培を中心にして、便利さだけを追求した食品です。 現代病の側面は、実はここにもう一つの顔を持っているのです。 まず、店頭に並ぶ植物は、日光の恩恵を殆ど受けていません。 したがってその植物の持つ、薬効や芳香が失われ、季節の「旬」が無視されているのです。「旬」とは、その季節が一番おいしいということであり、これは同時に、その季節だけが薬効や芳香も豊富で、栄養価が高いということになります。 植物には、発芽し、茎を延ばし、葉を広げ、成長し、結実するという季節のリズムがあります。そのリズムこそ、大宇宙の波動であり、この宇宙波動が無視されると、小宇宙としての人体も生体リズムが狂わされます。 さて、こうした現実において、私達は一体どうすればようにでしょうか。 ここに通常の野菜に負けない、あるいはそれ以上の能力を持った「野草」は存在します。 野草は自然に育った植物で、植物本来の滋養がたっぷりと蓄えられています。 私達は、自分の棲んでいる所から少し野山に踏み入れますと、そこは野草の宝庫となっています。しかし現代人は野草に関しての知識がない為、それを安易に食べられない植物と考えてしまいます。ここが落し穴であり、こうした固定観念で物事を考えると、将来の健康に対する展望は閉ざされることになります。 したがって身廻りの野草に眼を向ける必要があります。 また野草には、古来からの格言である「医食同根」の薬理作用があり、今日のビニールハウス育ちの野菜になはい、ビタミンやミネラルを多く含んでいます。 ミネラルで必要なものはカリウムやカルシウムで、これにリン等も付随します。 特に野草の中には多くのカリウムを含んでいます。 野草の中でビタミンを多く含む植物は、ヨモギ(別名、モチグサ、繕草、蓬蒿などの呼び名がある)であり、ビタミンA、B、C、Dを含み、ビタミンAの先駆体となるカロチンは、南瓜(かぼちゃ)や人参や茶葉に含まれていますが、これよりもヨモギの方が含有量が多く、またビタミンBは玉蜀黍(とうもろこし)、大蒜(にんにく)に含まれますが、やはりヨモギの方が上回ります。 更にビタミンCは、一般に果物の方が多いように思われますが、甘橘類のビタミン含有量にも劣らない豊富なビタミンCを含み、ヨモギの薬理成分は豊富です。また、ビタミンCに関してはヨモギに続き、その他に茶葉、柿の若葉、ワレモコウの葉、イタドリ(虎杖/タデ科の多年草で、至る所に生え、根茎は長く這う。若芽はウドに似て、紅色・微紅の斑点がある。茎は中空で節があり、高さは1mくらいで雌雄異株をもつ。夏には淡紅色または白色の花穂をつけ、若芽を食用とし、また、根は「虎杖根」として利尿・通経・健胃剤とする)の茎及び葉、スギナ(杉菜/トクサ科の多年生シダ植物で、温帯に広く分布し、長く横走する根茎から直立した地上茎を生じ、輪状に枝を出す。茎は緑色で節に鱗片状の葉をつけ、春には淡褐色の胞子茎を出し、これが土筆(つくし)で、食用とする)、ハマナス(浜茄子あるいはハマナシ/浜梨とも)の実などにも含まれます。 以上のことから、野草はビタミンやミネラルを多く含み、薬理作用において絶大な効果を発揮します。 つまり「野草」イコール「薬草」の図式が成り立つのです。 しかしこうした図式を把握するためには、「野草」に関する知識が必要であり、こうした薬草は、日本古来から野山に自生し、日本の風土によって培われてきた植物です。 一般にこうした植物の薬理効果を利用して、民間に広まったのが「民間薬」であり、中国から医術として伝わったのが「漢方薬」であり、この両者は大きく異なります。 そして何よりも大きな違いは、民間薬は単剤(単一植物の効用)であるのに対し、漢方薬は二つ以上の薬理効果を複合して用いられるのです。 したがって漢方薬の処方箋は医師が診断を下し、複合的な症状に対して患者の体質に合わせて複合剤を処方しますが、民間薬は単剤であるため、喩えば「せき」とか「きず」とかの、単一の症状に対して用いられ、同じ症状が不特定多数の患者に有効であるということを示しています。 そしてその不特定多数は、食することにも有効となります。ここに東洋の「医食同根」の思想が流れているのです。

●春の七草の種類と効用
春の七草は、芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎよう)・繁縷(はこべ)・仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)の七種類があります。古くは正月七日に羹(あつも/野菜や豆腐などを入れて作った熱い吸物)のにしました。 また後世は、これを俎(まないた)に載せて、囃(はや)して炊き、粥(かゆ)に入れて食べました。 これを「七草粥」と言います。 この粥は、玄米と併用し、胃腸の疲労を和らげる働きがあります。 「七草粥」は正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥のことで、後には薺(なずな)または油菜のみを用いました。 また正月十五日には、玄米・玄麦・ハト麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・小豆・大豆などの七種のものを入れて炊いた粥を「七種粥」と言い、後には「小豆粥」となりました。 過去の風習として「七草の祝」には「七草の囃し」と言うものがあって、前日の夜、または当日の朝、俎(まないた)に薺(なずな)または、七草や台所のすりこぎ・杓子(しゃくし)などを載せ、吉方(えほう)に向かい、「唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬ先になずな、ななくさ(ななくさ、なずな)」、または「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、ななくさ、なずな手に摘み入れて」等と唱え囃しながら、それらを叩く習俗がありましたが、今日ではすっかり忘れ去られ、こうした「祝の儀」もなくなりました。
1.芹(せり)……セリ科の多年草で、田の畦(あぜ)・小川・湿地に自生生息します。 また、水田で野菜として栽培し、泥の中に白い匐枝(ふくし)を延ばして繁殖します。高さは約20〜50cm。夏に花茎を出し、白色の小花をつける。若葉は独特の香り発し、食用には最適です。貧血症と解熱に効果があります。
2.薺(なずな)……アブラナ科の越年草で、路傍や田畑にごく普通に自生します。春高さは約30cm。春に白色の小十字花を総状につけ、果実は扁平で三角形しています。早春若芽を食用にするほか、高血圧・解熱・便秘・利尿・解熱・止血作用に効果があります。また煎じた液で洗眼すると眼の充血や痛みに効果があります。
3.御形(ごぎょう)……ハハコグサの異称で、春の七草に数えられ「おぎょう」とも言います。胃腸病全般に効果があります。
4.繁縷(はこべ)……ナデシコ科の越年草で、山野・路傍に自生します。高さは約15〜50cmで、下部は地に臥します。葉は広卵形で柔らかいく、春に白色の小五弁花を咲かせます。鳥餌または食用に供し、利尿剤や止血剤、としての効用があり、また全草を自然塩と混ぜて歯茎をマッサージすると出血や歯槽膿漏に効きます。別名「あさしらげ」「はこべら」と言う名があります。
5.仏の座(ほとけのざ)……キク科のタビラコの別称で、シソ科の一年または越年草です。原野・路傍に自生します。茎は柔軟で高さは約25cm。春し紫色の唇形花を輪状に付けます。別名「ホトケノツヅレ」「三階草」とも言います。整腸剤として効果があります。
6.菘(すずな)……青菜(あおな)、または蕪(かぶ)の別称。食用にし、利尿・解熱・止血作用に効果があります。
7.蘿蔔(すずしろ)……アブラナ科の多年草で、西日本の山地や岩上に自生します。高さ約15cm。走出枝を出し、根葉は叢生し長楕円形で、早春には白色の四弁花を総状に開かせます。胃腸病全般に効果があります。

●秋の七草の種類と効用
秋の七草には、萩(はぎ)・尾花(おばな)・葛(くず)・撫子(なでしこ/瞿麦)・女郎花(おみなえし)・藤袴(ふじばかま)・朝顔(アサガオは牽牛花とも書き、朝顔は今の桔梗(キキョウ)を言う説とムクゲなどを指す諸説がある)の七種類があります。
秋の七草は『万葉集』にも挙げられ、山上憶良は、
秋の野(ぬ)に咲きたる花を指折りてかき数ふれば七草の花
と詠んだ歌があります。
七草の花は萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花、藤袴、朝顔の花の七種です。

1.萩(はぎ)……マメ科ハギ属の小低木の総称で、高さ約1.5cmに達し、叢生します。枝は垂れるものはが多く、葉は複葉です。夏から秋に紅紫色または白色の蝶形花を多数総状につけ、のち莢(さや)を結びます。一般には観賞用として用いますが、家畜の飼料等にも使われ、普通にはヤマハギ・ミヤギノハギを指します。腎臓病と胃腸病に効果があります。
2.尾花(おばな)……一般にはススキの花穂を指し、これが花が尾に似ているので尾花とも言います。 また、食養としては、「尾花粥」があり、宮中では8月の朔日(さくび)に、疫病を除くために用いて粥にします。この粥にする場合は、ススキの穂を黒焼きにして粥に混ぜます。江戸時代には早稲(わせ)の穂を黒焼きにして黒胡麻を混ぜて用いました。肝臓病に効果があります。
3.葛(くず)……マメ科の大形蔓性の多年草で、山野に多く、蔓の長さは約10m以上にも達します。葉は大きく、裏面は白っぽい色をしています。秋に葉腋に花穂をつけ、紫紅色の蝶形花を総状に咲かせ、花後、平たい莢(さや)を生じさせます。根は肥大し、生薬の葛根(かつこん)として解熱薬に用い、また、葛粉を採ります。蔓の繊維をとって葛布(くずふ)を織り、また蔓で行李などを作ります。この名前の由来は、奈良県国栖(くず)の地名に因むという言い伝えもあります。胃腸病に効果があります。
4.撫子(なでしこ)……ナデシコ科の一群の草本の総称で、自生種ですが、最近では園芸品種も多く出回っています。 撫子は一種の多年草で、日当りのよい草地・川原などに自生します。高さは数10cm程で、葉は線形になっています。八〜九月頃、淡紅色の花を咲かせます。花弁は五枚で上端が深く細裂し、種子は黒色で小さく、薬用効果としては利尿に有効です。
5.女郎花(おみなえし)……オミナエシ科の多年草で、高さは約1mくらいです。山野に自生し、夏・秋に黄色の小花を多数傘状につけます。漢方では根を乾して、利尿剤にします。
6.藤袴(ふじばかま)……キク科の多年草で、やや湿気のある所に自生します。高さは約1mほどで、全体に佳香があります。秋には淡紫色の小さな頭花を咲かせ、多数散房状に花を開かせます。整腸剤として使われます。
7.桔梗(ききょう)……キキョウ科の多年草で、夏・秋の頃に、茎の先端に青紫色、または白色の美しい五裂の鐘形花を咲かせます。 また桔梗と言う漢名は、『神農本草経』(五〇二〜五五七年に編纂)にはじめて紹介されており、山地・丘陵・草原に自生し、根は牛蒡(ごぼう)状で太く、乾して生薬の桔梗根とし、気管支炎、偏桃腺炎、肺病、解熱に効果があり、去痰(たんをとる)・鎮咳薬などに用いられます。

●野草並びに毒草の智慧と利用法
大東流の『合気』は、これまでの古流武術諸流派には、全く見られない特異な武術です。 その修行法は広域に亘り、特に呼吸法と言う特殊な吐納術(とのうじゅつ)を用います。この術は、高度な技法をマスターする場合に用いられ、丹田呼吸法と言う、逆腹式呼吸を行うため、時として呼吸器障害や、深呼吸による酸過多状態に陥って、頭重を催し、精神障害を起こすことがあります。 呼吸器障害に於ては、一般に「禅病」(深い呼吸から起こる呼吸器障害で、心身を病む)という形で現れ、かつて白隠禅師(はくいんぜんじ/江戸中期の臨済宗の僧で、臨済宗中興の祖と称された)が、禅の吐納法の誤りから気管支喘息に似たこの病気を煩ってしまいました。 白隠は、若くして各地で修行し、京都妙心寺第一座となった時、この禅病を患い、北白河山中の仙人・白幽(はくゆう)から「瞑想・軟酥(なんそ)の法」を学び、これを克服しました。 白隠が著わした『夜船閑話』(やせんかんな)や『遠羅天釜』(おらてがま)には、この時の事が書かれています。以降も諸国を遍歴教化し、駿河の松蔭寺などを復興したほか、多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された名僧の一人です。そして白隠は気魄ある禅画をよくしました。 さて、「軟酥の法」の酥(そ)とは、牛または羊の乳を煮つめて濃くしたものを指すのですが、軟らかな酥、つまり仙薬を用いるとした唯心的なイメージで、実際には存在するものではなく、これが躰の中を気持ちよく流れ、自然治癒力を増幅させて、精神が肉体に影響を及ぼすという修法を現わしたもので、「内観の秘法」と呼ばれるものです。 これを実践すると、不安や恐怖が消え去り、気力が充実して、体内に生命力が躍動し、活力が増大するというもので、不治の病といわれる病気でさえも自然治癒力によって、完治するというものです。 人間界における、迷いも病気も、同じ脊髄から発するもので、これが脳に入り、脳に存在する「覚性」(かくしょう)に結び付いて全身を巡り、結局、その交わり結んだ度合によって小さければ迷いとなって、大きければ病気となって現われるとしたのが、人間に及ぼす災いであり、これを取り除くのが「軟酥の法」である、と「内観の秘法」は教えるのです。 したがって脳と脊髄を繋ぐ統一力で、迷いや病を切断すれば、自然治癒力が発揮されて、病気が治ると考えられたのがこの秘法でした。 ところが唯心所現の理によって、これを用いるために常人・凡夫には中々難解な秘法であり、一種の悟りであるので、効験(こうけん)を現わすには、かなりの修行と忍耐を要します。 そこで西郷派大東流では、こうした呼吸器障害や精神障害をウドなどの生薬によって、治癒させる方法を指導しています。 また、大東流合気の長年の修行者で、指導員クラスまで進んだ人の中には、深呼吸による酸過多状態に陥って、精神障害を煩っている人を時々見かけます。 こうした人は、本来ならばその上に人か、そのグループの最高責任者がこれに気付き、治してやらなければならないのですが、今日では古伝の活法技術を知らない為に、これを見過ごしたり、あるいは精神障害者のワンマンに振り廻されて、分派を作って益々細分化していると言うのが大東流の現実です。 さて、西郷派大東流合気武術は、その最高責任者である曽川和翁宗家(九州科学技術研究所・所長)の指導の許、こういう事態に陥った場合、即座に治療の改善策を打ち出します。 呼吸の吐納によって起こり間違いは、次ぎの通りです。
1.眼が赤くなる。これは亜脱臼と呼吸器障害が原因。
2.三白眼(さんぱくがん/黒目が上方に偏って、左右と下部の三方に白目のあるもの)の目付きになる。呼吸法の間違いから起こる、精神障害が原因。風呂の中などで、こうした呼吸法を行うと、この障害が出てくる。貧血や頭重もその一つ。
3.誇大妄想的で、行動が妄想を帯びてくる。精神障害が原因。
4.言っている事がおかしい。時として、常識外れの行動をする。
5.古神道や密教のオカルト的な話が多くなり、その真義に合わない事を言い出す。 6.躁鬱(そううつ)を交互に繰り返す。また気分的に浮沈の波がある。
7.喘息に似た咳をする。あるいは発作を起こす。癲癇を起こす。疳癪を起こす。激怒の状態が並みでない。
以上の事が起れば、呼吸器障害か、精神障害を起こしている恐れがあります。 さて、こうした場合、治し方があります。現代医学では残念ながら、こうした病気を完治させる事が出来ません。

●分裂病の治し方
西郷派大東流合気武術では、精神障害、眩暈(めまい)、頭痛、特に精神分裂病やアルコール依存症の人に、「ウド」を用いて、これらの治療を指導しています。 ウドは山地に自生している大形の多年草です。根は長大で、茎もその長さは約1〜1.5m程あります。葉は大形の羽状復葉をしていて、小葉は卵型で鋸歯です。夏になると茎の頂きには大きな花状の淡緑色の細かい花を付け、果実は球形で、南天(ナンテン)の実大でやがて熟して黒色になります。 野生のウドは日本全領土に見られ、他にも樺太や朝鮮半島、中国大陸等にも見られます。 さて、ウドの効用に付いて進めて行きましょう。
まず、ウドの、根から採取する生汁の絞り方について教授しましょう。
ウドを根ごと掘り出して、逆さまにし、三角フラスコ等の容器にこの生汁を集めます。茎の部分は長さ約30cmくらいの処で切り取り、コルク栓等で密閉し、生汁を採取します。採取した生汁は約一合を一日量として朝昼晩と三回にわけて服用します。また、この生汁は強精剤としても遣われ、頭痛や歯痛、神経痛にも効果が大きいものです。 飲み方は他にも、煎じて飲んだり、ウドの根を陰干しにしてそれを煎じて飲むか、黒焼きの粉にしてそれを飲む方法もあります。 また精神分裂病を治す方法は他にもあり、霊動法(れいどうほう)と言う「口伝」(西郷派大東流活法術)の業を遣いますが、これは直接実地で教わらないと文章には書き尽くせません。

●精神病について
昨今は、社会構造も複雑になり、また食生活の誤りから、精神機能に障害を訴える人が多くなり、精神病が増えています。この病気は、主として内因性および器質性のものが挙げられ、殊に精神分裂病と躁鬱病を二大精神病と言います。 さて、昨今の精神医学を見てみますと、精神分裂病は「自我が潰された病気」としていますが、これに対して決定的な科学的治療法は、まだ確立されていません。多くの患者は、一進一退を繰り返しながら、徐々に悪くなっていくというのが実情です。 ところが旧ソ連邦において、早くからこの治療法に専念し、この解決法を研究していた医学グループがおりました。 このグループはあらゆる科学的な治療法を試みましたが、いずれも失敗し、サジをなげて絶食を患者に試みたところ、かなりの効果があったということを認め、以降これが定説になり、断食療法が試みられていますが、日本ではあまりこれを知る人はいません。 精神病患者を見ますと、精神病が悪化すると、患者は殆ど食べ物を口にしなくなります。こうした患者に精神科の入院病棟では、体力の消耗を考えて、鼻から流動食の管を差し込み、無理やりに栄養補給することを徹底させます。 こうした事に対し、森下敬一医学博士は、「これが一番いけないことである」と断言しています。患者が食べ物を食べないということは、躰が食べ物を受け付けないということであり、自然に食欲が出るまで待つことだ、と言います。そして患者が食べ物に手を出したとき、それは治る前の前兆だと言います。 こうした事を考えて見ますと、食と肉体は深い関わり合いを持っていることが分かります。 「自我が潰される」ということは、どこまでも強い正義感を持ち、不正に敗けない頑固一徹の人が胸のシコリが溶けないような状態で、ストレスを起こすと、たちまり神経細胞が緊張しますから、こうした事で精神障害を起こします。ヒステリーを押さえようとして、かえってヒステリー球が殖えてしまうのです。こうした現象が、精神病なのです。

●猛毒のトリカブトについて
キンポウゲ科の猛毒を持った植物にトリカブトがあります。 トリカブトは全国の山地に生える多年草で、高さは約1m程になり、深く切り込んだ葉が特徴です。この植物はニリンソウと間違い易く、秋になると紫色の花を咲かせます。 この植物の形的な特徴は、地面下の部分が指先くらいの小さな株のような形をしていて、ここに薬効成分が含まれていますが、一般にはこの処理法は知られていない為、これをうっかり口にしますと、大変な中毒症状に掛かるので要注意です。 また、茎や葉にも猛毒成分があり、かつてアイヌの人達は、株根や茎や葉の部分から毒矢を作り、熊狩りをしたと言われます。 更に三国志に出てくる関羽(かんう/三国の蜀漢の武将。字は雲長)は、敵のトリカブトで作った樹液の毒矢を腕に受け、もう少しで命を失うところでしたが、名医の華佗(かだ/字は元化)に救われ、一命を取り留めました。 華佗は後漢末・魏初の名医で、麻沸散(麻酔薬)による外科手術を得意とし、他にも五禽戯と称する体操などを発明して有名になった人物です。三国時代、曹操の侍医になりましたが、のち殺されてしまいました。華佗はトリカブトの猛毒成分の秘密を識(し)り尽くしていた為だと言われます。 トリカブトには、その毒成分にアコニチンを主体とするアルカロイドがあり、この物質は中枢神経を麻痺させ、生命を奪うに充分な毒性を持っています。 このトリカブトを「秘伝書」にしたものは、日本では平安末期に入って来て、その薬効成分や猛毒成分は武士階級の「術」として遣われるようになりました。 日本に入って来たトリカブトは「鳥兜」と言う字が当てられ、塊根を乾したものは烏頭(うず)または附子(ぶし)といい、「猛毒であるが生薬とする。同属近似の種が多く、それらを総称することが多い。種によって薬効・毒性は異なる」と、書言字考節用集『草烏頭(トリカブト)』には記されています。
アコニチン(aconitine)は、キンポウゲ科トリカブト属(属名アコニトゥム)の根に含まれる毒性の強いアルカロイドを含有します。白色の結晶を持ち、哺乳動物の中枢神経を麻痺させ、呼吸麻痺を引き起す末梢神経をまず興奮させ、のち麻痺させます。
またアルカロイド(alkaloid)は主に高等植物体中に存在する、窒素を含む複雑な塩基性有機化合物の総称です。
こうした高等植物体中には、ニコチン・モルヒネ・コカイン・キニーネ・カフェイン・エフェドリン・クラーレなど多数のものが知られています。麻薬として知られる罌粟(けし)もその一つで、植物体中では多く酸と結合して塩を形成し、少量で、毒作用や感覚異常など特殊な薬理作用を呈し、毒性を持つ植物塩基のことです。
こうした植物から、日本では様々な武器と共に毒薬が作られました。 かつて天皇の忍者として夜を暗躍した「風魔一族」(ふうまいちぞく)は、月夜の晩、こうした毒と秘密武器をひっさげて、暗殺集団として恐れられました。

●血液浄化の近道とその処置
血が汚れているから病気になります。 では、何故、血は汚れるのでしょうか。 最大の原因は、食物の世界に混乱があり、人間には不必要な食物を体内に取り込んで、腸内に停滞した肉や乳製品などの食物が腐敗しているからです。 したがって腐敗物質を取り除き、腸内環境をよくして、整腸をはかり、人間に許された自然食を摂れば、こうした問題は解消されます。 これを実行する手順としては、
1.少食を実践しつつ、穀物菜食を徹底して、腐敗を起こす食品を極力避ける。したがって白米や食肉はやめる。
2.腐敗物質の排泄を行う。これを排泄するためには、一ヵ月間位かけて、次第に食事の量を減らし、一週間の期間で「半断食」を行う。この期間が終了したら、また、一ヵ月間位かけて徐々に戻し、以降は穀物菜食を中心に、粗食・少食の正しい食習慣に切り替える。
3.腸内環境を整えつつ、整腸がはかれる発酵食品と良質の酵素を補食する。 玄米を中心に五穀を3:1に割合で配合し、野菜や海藻類の食生活に切り替えれば、整腸方向に向かい、更に発酵食品や良質の酵素を効果的に活用する。
病気治癒の秘訣は、誤った食習慣から脱出するためには、まず第一が体質悪化の元凶である精白食品(白米、白小麦粉、白パン、白砂糖、漂白精製化学塩など)と動物性蛋白食品(食肉、乳製品、肉や魚の加工食品、魚の練製品、卵など)をやめなければなりません。これらは必ず腸内に入るとそこで腐敗し、停滞して便秘状態をつくり、著しく酸毒化して、血液を汚し、総ての病気の発生源となります。
その第二としては、極力少食にして、穀物菜食に徹して粗食にしなければなりません。現代栄養学が言うように、主食の他に一日八種類程度の御数を食べるということは必要ではなく、味噌汁、たくわん、梅干というような少ない御数でも構わないのです。
現代人は年々躰を動かす運動量が減り、必ずしも一日三食を取る必要はなく、一日二食程度が理想といえます。この事は、古来の日本人の食生活の食事時間の呼び名であった「朝餉」(あさげ)や「夕餉」(ゆうげ)ということからも窺えます。つまり、一日二食なのです。

▲「朝餉」と「夕餉」の時間感覚
また朝餉という時間帯は、今日の朝食で言われる午前六〜七時の時間帯を指すのではなく、午前十〜十一時までの時間帯であり、また夕餉は午後五〜六時までの時間帯を表わしていました。そして朝餉から夕餉までの食間時間は六時間以上であり、その食間に間食することは過食になるため、とにかく思いきった少食が必要になります。
もともと人間は少ない食事の量で、十分な活動が出来るように創られているのです。 一日三食以上の過食や間食は、肥満を生むばかりでなく、内臓全体に過重な負担を掛け、それぞれの機能減退を発生させますから、かえって体力の低下を招きます。 「疲れる」という現象は、栄養分が少ないから疲れるのではなく、過食をするから疲れるのです。こうした時に栄養分を補給することは逆効果になり、益々疲労を募らせます。
また栄養補給剤などの薬用飲食食品がありますが、こうした食品は一時的に内臓機能に薬用効果を以て、疲労回復したように錯覚を作り上げるだけであって、これ等を一反用いると、習慣化して常に補給しないと、疲れるという条件反射を起こします。 こうした栄養補給剤を用いるよりは、少食に心掛けた方が安上がりであり、安易に薬品メーカーの策略に嵌り、企業のご都合主義の手助けをする必要はありません。資本主義の市場経済の基本的メカニズムは、「消費のための消費」という、消費者に消費を常に促して、それを促進するシステムであるということを忘れてはなりません。 次のその第三としては、不自然な加工食品は絶対に避けるということです。 食品というのは、人為が加わり、それが機械的にオートメーションなどと称されて工業化され、商品化が進めば進むほど、更に人為的な加工が加わって、食べ物自体は益々不自然化するという現実を忘れてはなりません。 どのような方法を用い、自然食品と豪語されていても、本質は防腐剤や、見掛けを良くするために合成着色料(食品に色をつけるために用いる色素で、天然色素と合成着色料があるが、多くの食品に用いられているのは圧倒的に後者の方)などの化学物質が巧妙に散布されられていて、表面からはそれを窺うことは出来ません。 こうした化学物質を体内の取り込むことは、何としてでも阻止しなければなりません。とりわけ化学調味料(昨今では、「うま味調味料」と言われ、昆布や鰹節などの天然の旨み成分を化学的にまたは酵素を用いて処理して得た調味料。また、それらの2〜3種を混合したもの。グルタミン酸ナトリウム・イノシン酸ナトリウム・グアニル酸ナトリウムの類)などは要注意です。 市場には夥しい新種の化学調味料が出廻っています。化学調味料入のドレッシング類も同様です。こうした物は、何一つ健康に役立つものは存在せず、ももとも人為的に作り出した精製化学塩ベースのナトリウム類に、安全な食品など一切あるはずがありません。 病気という現象は、単に肉体が病んだという状態ではなく、神から人間に対する、一種の警告だと受け取って下さい。 だから人間はこの警告を素直に受け取り、疾病(しっぺい)の赤信号であるということだけではなく、「心の暗影(かげ)」(不摂生と無理から起こる)が現われたと取るべきでしょう。肉体だけが悪くなったという考え方は早計です。 これに大きく絡んでいるのは、生活の暗影と不自然さにあります。これはとりもなおさず、心の不自然さが顕在化したと見るべきでしょう。 そしてこうした時の受け取り方ですが、安易に、不運だったとか、ツイてないとかの、苦汁の唸(ねん)で捉えるのでなく、有難い自然からの忠告、神が与えた赤信号として受け取り、喜んでこれを受け入れることが大切です。 逃げれば、追いかけてくるというのが、三次元顕界の掟(おきて)です。病気から逃れようとして、小細工を使い、逃れようとしますと、病気は益々追いかけてきます。病状も日増しに悪化します。 ところが、病気になったことを素直に受け入れ、病気と共存するという気持ちに切り替えて、「病気は怖がるものではない」という意識をもって「共棲」の道を選択しますと、やがて病気は、向こうの方から遠のきます。今や、病気は怖がるものではなく、また恐れるという時代も終焉した時代に入ったということを自覚するべきでしょう。そしてこうしたものを喜んで利用し、歓喜に満ちた生活態度に改めますと、今日のような殺伐とし、混沌とした世の中は、やがて明朗の世の中に生まれ変わっていくのです。 病気のお見舞に、「大変結構な来襲です」という時代が到来したのです。 まず、食の誤りを正し、人間に許された食べ物に戻す必要があるという時代が来たのです。

●満腹中枢破壊症と味覚中枢破壊症
いつの時代も「腹一杯食べたい」という人間の欲望は消える事がありません。こうした願望と、体型の欲望が、食拒食症という病気をつくりました。 食拒食症とは、食事を拒む病的な状態で、主に思春期の女性に好発する神経性食思不振症(思春期やせ症)は極度の不食と高度の「痩せ(やせ)」を主な徴候とし、強い肥満に対して異常な嫌悪感を持つ病気です。精神医学(臨床医学の一分科で、異常な精神状態の診断・治療・予防を目的とする。古くは「精神病学」と呼ばれたが、第二次大戦以後、狭義の精神病のみでなく、ひろく精神の諸問題を医学的に扱う意味で精神医学という呼称が一般化した)では、こうした心理状態は、心因的背景によるとされています。 好きなだけ食べて、「吐く」と言う行為を繰り返し、脳中枢に異常な状態を作り出し、最後は「食べる事すら罪悪の一種」であるというふうに思い込んでしまうのです。自分の躰に、少しでも肉が着くことを嫌ってしまうのです。 また拒食症と裏返しにした病気が、食過食症で、食欲が異常に亢進し、多量の食物を摂取する状態を、こう言います。 精神医学では、まず、内分泌異常、視床下部傷害、精神・神経異常などによる摂食中枢の機能亢進が原因とされています。一般には「多食症」の名で知られ、食欲異常の状態を指します。 喰っても、喰っても喰い足りない状態で、神霊学では「霊的異常」状態を指します。 こうした病気を昔は「どんぶり腹」と言い、数世代前の飢餓で死んで、未だになお、現世の人間に取り憑き、その願望を満たそうとする、霊の仕業ともされています。 もともと食欲異常は、食行動が正常でない状態を指します。無食欲・偏食・過食・多食・拒食・嗜好の異常など病理的異常状態で、多くは精神病理的背景を持ちます。 さて、昔から「馬鹿の大喰い」という言葉があります。これを医学的に考察して見ますと、やはり「宿便」が「大喰い」によって腸内に大量に停滞し、その結果、智慧の廻らない人間になってしまうという状態が言えます。頭痛、偏頭痛、頭重と言ったフラツキ現象は、腸内の宿便が原因であり、腐敗物質から大量に発生したガスと密接な関係があります。つまり、宿便の大量保存は、当然頭も鈍り、自身の満腹中枢すらコントロールできない状態に陥るのです。 昨今流行している、蒟蒻(こんにゃく/サトイモ科の多年生作物で、原産地はインドとされ、古く渡来して各地で栽培。雌雄異花で、高さ1mに達する。こんにゃく玉の粉末に水を加えてこね、これに石灰乳を混ぜて煮沸し固めて製した食品)をベースにした健康食品と称する食品が、若い女性を対象に市販されていますが、「腹一体食べたい」という願望を満たすための食品であることは疑いようもなく、蒟蒻という低カロリー・低栄養食品という特性を利用しただけであり、「大喰い癖」を延長しただけの愚行であるという、譏(そしり)は免れる事が出来ません。 巷には愚行と言う外ない、間違った健康法、愚かの極みと言うべき美容法が、寔(まこと)しやかに流行しています。これらの健康法や美容法の中には、一日四回も五回も食事をさせて、滋養を必要以上に摂らせ、満腹時の150%〜200%の状態にしておいて、「痩せる」と豪語したものや、「好きなだけ食べて、思うように痩せる」というキャッチフレーズの下に、多くの女性の人気を集めている美容法すら登場しています。 こうした健康法や美容法の裏側には、粗食・少食を実行して、これを辛抱するよりは、腹一杯食べて、その上に「痩せられる?」と言う、疑問符を残しつつの愚療法であり、これが愚であることの疑いを抱きながらも、魅了されて、ついには惹(ひ)き寄せられると言う「悪魔の囁き」があることを忘れてはなりません。 低カロリーで、低栄養学食品の生野菜や海藻類、あるいは蒟蒻や寒天(かんてん)と言った食品を腹一杯食べて痩せたとしても、大食に悪癖が残って居る以上、美食へのリバウンド現象で、元の黙阿弥(もくあみ)に戻る危険性は十分に考えられます。 更に注意すべき事柄は、生野菜や海藻類を毎日腹一杯食べるという愚行は、胃や腸の壁を荒し、そのこと事態で障害に悩まされるという現象は起こります。 「好きなだけ食べて、思うように痩せる」という、この健康法や美容法は、この指導者が自分自身で、これを十年二十年という単位で実行し、生野菜と海藻類、寒天や蒟蒻、あるいは果物だけというものを毎日腹一体食べ、その長期に亙る臨床実験から得た実績結果で、世に送出したものなのでしょうか。 私達、大東流霊的食養道研究グループは、過去において、低カロリー・低栄養学食品を毎日腹一杯食べ、いつの間にかその習慣が身についてしまい、その後、普通の食事が出来ずに悩み続け、結果的に胃腸や大腸を壊してしまい、今もこうした障害に悩み続けている著名な健康法の実践者達を知っています。 この事から言って、一旦身に付いてしまった「大喰い癖」は中々自分の軟弱な意志ではコントロールしにくいようです。 こうした満腹中枢に異常を与え、破壊する心的要因の病気の他に、味覚中枢を破壊する現象があります。 既にこれまで挙げた通り、「うま味調味料」という実害を紹介しましたが、その他にも、白砂糖や糖分の分野にもこうした物が入り込み、低カロリーの砂糖や清涼飲料水が、「低カロリー」という文句を全面に打ち出し、熾烈な競争原理の中で、大衆に向けて消費を促します。 さて、味覚器官に化学物質が刺激となって生ずる感覚は、鹹・酸・甘・苦の四種類の基礎感覚(これらを味質という)に分けられます。これらが混合・融合して、種々の味や旨みが感じられます。人間の味覚器官は、舌の味蕾(みらい)が主な味覚の受容器で、顔面神経と舌咽神経を介して、脳中枢に伝えられます。これを一般には「味感」と称しています。 味蕾は「味覚芽(みかくが)」ともいわれ、舌粘膜の各種の乳頭内にある卵形の小体で、感覚細胞から成り、味覚を司ります。 特に四種類の鹹・酸・甘・苦の中で、商品として成り立つ食品は「甘」の部分を司る「砂糖」であり、食品メーカーは人間の味覚芽が「甘」に一番多く反応するという結果から、「ノン・シュガー食品」を生産することを思いつきました。 さて、砂糖は、蔗糖(サッカロース)の通称で、その分子式構造は、「C12H22O11」に代表されます。 この物質は甘味が強く、光合成能力のある植物中に存在し、水に溶け易い白色の結晶を蔗糖と言います。 この製造法は、サトウキビ・サトウダイコンなどから製し、甘味料としての成分を組成します。また、希酸や酵素により加水分解されて、葡萄糖(グルコース)と果糖(フルクトース)になります。 これを組成する植物は、一般には「C4植物」と言われ、光合成による初期産物が炭素原子4個の化合物である経路をもつ植物で、種子植物の一部に限られ、一般には光合成の効率が高いという特性を持ちます。そのため、高温・乾燥に適応します。トウモロコシ・サトウキビ(砂糖蜀黍/イネ科の一年生作物。モロコシの一変種で、茎は糖分に富み、糖蜜の製造、製糖原料となる)などが、これです。 また他にも、砂糖黍・甘蔗(さとうぎみ)があり、原産地はニュー‐ギニア、またはその周辺に生息し、最も重要な糖料作物で、熱帯各地に大規模に栽培され、日本には17世紀初めに中国から渡来、沖縄の主要農産物の一つとなりました。この茎の搾り汁から蔗糖を製します。 他にもイネ科の植物の中には、炭素が3個の場合は、「C3植物」とというものがあり、イネ・コムギ・ダイズなどがこれに入ります。 さて、甘味の高低は「検糖計」というもので計測されます。これは糖の濃度を測定する器械で、比重計と、偏光計で比旋光度を計測するものとがあります。この計測器を「サッカリメーター」と言います。この糖の濃度を測定する器械によって、「甘味濃度」は従来通りで、そのカロリー値が低いという食品が開発され、「シュガー・レス」時代を作ったと言えます。 ところが、この食品自体も、細胞機能に直接働き、機能を鈍らせることは明白であり、白砂糖同様、細胞内のミネラル成分を排泄するように作用し、疲労しやすい体質をつくってしまいます。 そして最も危険なことは、これが砂糖黍などから作られた、黒砂糖(まだ精製してない茶褐色の砂糖。甘蔗汁をしぼって鍋で煮詰めたもの)ではなく、漂白後の白砂糖からその組成を真似て作り出された、天然の成分を化学的に用いて処理した甘味料であるということを忘れてはなりません。蔗糖・水飴・葡萄糖・果糖・麦芽糖・乳糖・サッカリンなどもこの種類のものになります。 さて昨今、一般的な常識になりつつある食の考え方に、「朝食をしっかり摂る」という現代栄養学並びに現代医学の考え方があります。 この理由は、その日一日の活動エネルギーは、朝食を摂る事によって、それがエネルギー源になると言うことなのです。 また、こうした源は午前中朝食をしっかり摂ることによって、脳の活動が高まるからとしています。脳の活動を高めるためには「糖質」が必要であり、糖質は肉体エネルギー源の中心であるとしています。 この糖質源は白米の糖質を指し、明治時代の日本陸軍は、朝から一食二合の白米を食べていたから糖質が脳に吸収され、判断力が増して、日清戦争、日露戦争に勝てたのだという、感心できない因果関係に結び付けています。喩え、この、朝食をしっかり摂ることで戦争に勝てたという説をとるにしても、また当時の日本陸軍の兵卒を苦しめた病気に脚気があり、その原因は白米でした。 白米の糖質分を摂取し、糖分を摂り、肉体エネルギーに変換するという考え方は、今では完全に否定されています。 またこうした考えは、「疲れた時には、糖分を摂ると疲れが癒える」という考え方と同じであり、糖分が疲れを取るのに、何の因果関係もないのに、また一方で脳を活動させるためには糖分が必要であるとする「朝食糖分説」は、前後を刺し違えて、どこか矛盾していないでしょうか。 一日の活動エネルギーは、朝食を摂ることによって発生するのではなく、異化作用と同化作用を考えれば、今日の一日のエネルギーは、既に昨日食べた夕食によりつくられているのです。 昨今は、過食に趨らせる社会風潮があることを警戒しなければなりません。

●人間改造の秘訣
巷には、体質改善とか、性格改造とか、人格改造とか言った言葉が満ち溢れています。 ところが「人間改造」となると、あまり耳にすることは殆どありません。 これは「改造」と云う言葉が、枝葉末節的な末端だけに使われて、根本に迫ろうとした意味で使われていないということを現わした現象とも言えます。 しかし、以上を総して言えば、やはり「人間改造」ということになるのではないでしょうか。 人間改造という、動機を可能に至たらしめる根本原理は、仏教の教える「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)という言葉が大変参考になります。 煩悩とは、 衆生の心身を、わずらわし悩ませる一切の妄念のことで、「貪・瞋・痴・慢・疑・見」を根本としますが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などと言われて、煩悩を断じた境地こそが「悟り」であると教えています。 そして煩悩即菩提とは、相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであることを現わします。 だから煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越することが、死生観を超越し、やがて、「生死即涅槃」(せいしそくねはん)という境地に辿り着き、生死輪廻(せいしりんね)を繰り返す「迷いの世界」(三次元顕界を指し、現世の意味)も、その根底においては、涅槃の「絶対の世界」と一つであるということの教えです。 したがってこの教えを基盤に、人間改造を試みた時、「煩悩即菩提」に立脚した人生観にしたがって生きようとすれば、一方において、「愚」はそれを顧みることによって「賢」に辿り着くとも言えるのです。 常人・凡夫というものは、そのレベル的分布で、低ければ低いほど、傲慢かつ頑迷的で、横柄かつ威圧的で、また「愚か」でもあります。その愚かさ故に、悩みがなく順風満帆の時は己を顧みませんから、反省するチャンスもなく、有頂天の極みにいて暴言や横暴を繰り返して、霊格を益々降下させる行いをしてしまいます。 昨今の芸能界やスポーツ界にはこう言う人が、うようよ居ます。そして昨今の、一部の政治家の思い上がりや、傲慢は彼等以上と言えましょう。 こうした一部の政治家は与野党を問わず、昨今の政治家の、こき下ろし政策の中に、自分自身も嵌り、自ら自身の品格や人格を降格させているようにも窺えるような、暴言と愚行を仕出かします。有頂天に舞い上がっているためでしょうか。 本来人間は、悩みや苦しみや迷いに出会って、初めて自分の過去を振り返り、そこから反省点を探し出し、これまでの過ちを正そうとします。 それ故に、病気で悩んだり、死生観に迷いを生じたり、事業に失敗して苦しんだり、落ち目になったことを悔やんだりして、その先に微かなトンネルの出口に通じる希望の光を見い出し、菩提に繋がる絶好のチャンスに巡り会います。この意味で、病気になることは有難いことであり、病気をしたお陰で健康の本当の意味を学ぼうとします。 しかし、煩悩即菩提という、一見非合理に見えるこの現象は、むしろ、煩悩即地獄と言う方に偏り、この合理的に見える考え方から、「現実逃避」という一時的な思考が生まれました。 煩悩即地獄という考え方が、現代では主流になり、苦しみや迷いや悩みから逃れることだけにエネルギーが費やされ、一時的な対処法の中に逃げ込むという解決策に終始し始めることになります。 安易に「解決」と云う言葉が用いられ、根本的な「解消」という言葉が等閑(なおざり)にされています。 つまり、根本原因を何一つ見つけ出すのではなく、臭い部分に蓋をするという、部分解決のみをベストとする考え方が生まれたのです。 しかしこうした考え方は、一時的な思考であるため、一件落着的な解決はあっても、根本的に解消するという思考には繋がりません。そしてこうしたものは、何一つ人間改造には役に立たないものばかりです。 愚者が繰り返し、悪事を繰り返すのは、根本的に改まっていないからであり、違反の上に違反、過ちの上に過ちを重ねる罪障に由来しているためです。 こうして考えていくと、人間改造を可能にならしめるものは、一見非合理的に見える処に、実はその真理があるのではないでしょうか。 故事に「可愛い子には旅をさせろ」とはこれを、如実に物語った諌言ではないでしょうか。 例えば、この諌言を病気に置き換えますと、冷え症の人の場合、次第に厚着の習慣になり、何枚も重ねて衣服を身に纏った上、懐炉(かいろ)を離さずに身に付け、こうしないと、果たして冷え症は癒(なお)らないのでしょうか。 これは一見合理的に見えます。冷え症だから厚着をし、寒い冬は懐炉を肌身離さず携帯するという事は、裏を返せば、躰を衣服で包めば包むほど、また懐炉を常に携帯するという習慣を続ければ続けるほど、益々寒さに弱い躰を作ってしまうのではないでしょうか。 また、胃潰瘍の人は、痩身願望者から羨まれるような、「食べても食べても、太らない躰付き」をしています。俗に言う、「痩せの大食い」です。 昨今の世俗的流行は、痩身体躯が持て囃され、「痩せている」ということが羨望の的になり、「太っている」ということは、不健康の譏を受けてしまうという風潮にあります。 しかし痩せているということも、決して健康であるとは言えないものなのです。 一般常識として、痩せている人は滋養食を十分に摂取し、それによって健康的な標準体質に近づけるのでは、という考え方があります。ところが、痩せている人は、多くの場合、胃潰瘍や胃下垂である場合が多く、「食べても食べても、太らない」状態にあります。 したがって何を食べても、また栄養満点の食べ物を食べても、この一見合理的と思える栄養指導によって、決して太ることはありません。 これはこうした人が、胃腸を病んでいるために、消化吸収能力が、標準体重の人より劣っているからです。すなわち、弱い体質であり、病的で虚弱な体躯をしているということになります。 また一般に、酸性体質の人がアルカリ性物質を多く含んだ食品を摂ると、アルカリ性体質なるのでは、と思われています。生野菜をふんだんに食べ、海藻類を毎日多量に食べれば、アルカリ性体質になるというふうに思われています。しかし、果たしてそうでしょうか。 野菜や海藻類を多量摂取すると、確かに一時的には体質がアルカリ性(生理的には中性)に傾きます。だからと言ってアルカリ性に変わったとは即断できません。 本当のアルカリ性体質とは、自らの躰でアルカリを作り、それを長時間継続し、維持できる躰のことを言います。 ところが、野菜を食べ、海藻類を美容食として摂って居る人は、その尿を検査しますと、常に強アルカリの反応が出ます。これはすなわち、大量のアルカリ成分が体外へ総て逃げ出しているということになります。 こういう状態を防止するためには、アルカリ成分が逃げ出さないような躰をつくることが抜本的な問題であり、大量摂取でアルカリ成分を取り込むという、一見合理的に思える考え方は、生命体では全く通用しないという事が解ると思います。 疲れやすいから、疲れないように大量に滋養食を摂る、と言った考え方は、実は間違いであり、むしろ、少食にして、食事回数を減らし、食事と食事の食間を常に六時間以上設けて、これに徹すれば疲れ易い体質は改善されてしまうのです。 食の世界、躰の世界には、根本的には煩悩即菩提という考え方が、何処までも続いているようです。

●病気と共棲するという、もう一つの考え方
近代、特に進歩を遂げたと称する現代医学は、抗生物質の乱用に眼に余るものがあります。 抗生物質は、体内に侵入した病原菌を撲滅するために開発された薬品ですが、このベースはカビや放線菌・細菌によって作られたもので、他の微生物の繁殖を抑制します。 この物質は、他にも制癌作用を持つ特異性があり、ペニシリンが1941年再発見されて以来、これに続いて、ストレプトマイシン・クロロマイセチン・テトラサイクリン・トリコマイシンなどの多数の物質が発見されました。 こうした物質は特効性があるため、治療現場では多く使用され、一方において副作用が起こっていることも、また事実です。 抗生物質の使用思想には、「皆殺しの理論」が貫かれていて、人間を中心にして考える、人間本位の発想が先行しています。 しかしこれは、宇宙全体から見れば、人間のみのご都合主義であり、実際には細菌といえども、生存する権利があるのではと、考えることが出来ないでしょうか。 生物生存の平等法則は、特定の権力階級に与えられているものだけではなく、末端にも等しく適用されなければなりません。 「特権階級の、特権階級のための、特権階級の生存」であってはならないのです。 生存する、等しく生きるということは、何人にも適用され、如何なる生物であろうとも、それは平等であるべきだと考えます。 したがって平等思想というものは、人間界だけによらず、動物の世界でも、微生物の世界でも、これを認め、お互いが「共棲」するという次元に至って、初めて平等思想は本物になるのではないでしょうか。 約二千五百年前に説かれた釈迦の教えは、「万物は総て平等に生存する権利を有する」というものでした。これこそが、真の平等思想であり、宇宙の真理と確信します。 しかし現代医学の医療現場を見てみますと、抗生物質の乱用により、差別思想が先行しており、ガン化した異常細胞は手術により切除するか、抗癌剤を用いて完全に撲滅させるという、皆殺しの理論で医療が進められています。 また、ガンでなくても、例えば胃潰瘍の人までが、胃に病巣があるからと言って、胃を四分の三とか、二分の一を切除して、胃の一部を邪魔物扱いする治療が行われています。 本来の医学は、命に極めて危険のある場合、止むおえず病巣部を切除しなければならない緊急の場合もありましょうが、慢性病においては、一時的な異常細胞を、再び善導して正常細胞に戻す技術こそ、真の医学であり、切除したり、攻撃をしないで修復するという治療法が開発されるべきだと思います。 現代科学の産物は、豊かさと便利さと、その快適さの中に人間を誘いましたが、その反動として、食品公害や、農薬公害、騒音公害、地球汚染、オゾン層の破壊など、様々な悪因縁を結び付け、現代人を病める哺乳動物へと作り替えています。こうした事の、最大の原因は、総て差別思想に起因していると言えましょう。 結局、人類は近代に民主主義という政治的理念の中で、「平等」という権利を勝ち取ったのですが、この平等は、単に「表皮」の部分だけの平等であり、法に守られた「基本的人権の平等」という、巧妙な権力者の搾取を忘れてはなりません。 特に戦後教育の中で受けた、民主主義の中の平等教育は、その根本原理が「法の下での万民の平等」であり、貧富の差の平等を禁止したり、強弱の平等を禁止してはいないのです。 むしろ民主主義とは、「エゴイズム」を露にすることで、他との競争原理において、強弱を決着させ、何人かの強者を選別しておいて、その中から個人勝ち抜きの選挙を行い、選挙の当選者が、人民のリーダーとなって群れを率いるという、原理から出来ており、これはとりもなおさず、個人主義のエゴイズムを全面に打ち出した弱肉強食のシステムといえます。 民主主義下においては、常に弱い者は淘汰され、抹殺される運命にあり、個人も企業もこの原理の中で凌ぎを削り、自身の保身を賭けて奔走しているという現実があるのです。 したがって最終的には、「自分だけがよければ、他人はどうなっても」という、悪しき個人主義に変貌します。こうした悪しき個人主義、エゴイズムの中の、一体何処に「平等」が存在するのでしょうか。 「敵は徹底的に叩けばよい」「自分だけが濡れ手に粟で、儲かりさえすればよい」「他人の被害は、我が方の得」と言わんばかりに、奔走に明け暮れます。 公害の根本的な原因は、実はこの中に存在したのではないでしょうか。 これまでを振り返れば、こうしたエゴイズムの中で、実際に農家でも、自家用の野菜や農作物には一切農薬を使わず、市場へ出荷する農作物には、形や色を着けるために、ふんだんに農薬を使い、見た目だけをモットーに、平気で他人にはこうした有害物質を食べさせるという農業従事者がいます。 また養殖業者の中にも、薬漬けの餌を散布して養殖のハマチや、市場に鯛を出荷しておいて、自分や家族の食べる魚は天然物に徹底的にこだわるという人がいます。 工場経営者や、化学薬品を扱う企業を経営する人の中には、工場廃棄物を自らの責任において処理することもなく、夜陰に乗じて河川に投棄して、自社の利益を貪る輩も少なくありません。 公害監視の眼は徐々に厳しさを増していますが、実は、こうした心無い経営者に鉄槌を下せるほど、現行法は、法の整備を整えておらず、公害基準値というものを設けたために、そのすれすれで免れるといった、巧妙な手に出て、法を躱(かわ)している企業を少なくありません。 製粉やインスタント食品メーカーの殆どは、この類でしょう。 こうして考えてみると、自己中心的な思想が変わらない限り、公害問題は、数・量・質の面において、そのスケールが二乗の放物線の跳ね上がりのように巨大化し、個人格差は経済においても、エゴイズムにおいても、持てる者と持てない者、強い者と弱い者、トップクラス対ミドルクラス、そして人間対生物というふうに格差を大きくして、招来される諸問題は、楽観を許さない大きな脅威となっていくことでしょう。 さて、細菌学(細菌の種類および性質を研究する学問。パスツール・コッホなどによって発達し、現在は医学・農学方面に応用)において、細菌や病害虫のような邪魔物は、総て皆殺しにして、撲滅すればそれでよいという考え方は全く通用しません。抗生物質や農薬を用いて彼等の撲滅を図ろうとすれば、彼等も負けておらず、反撃に転じます。この際、必ず抵抗力を着けるという条件反射が起こり、その抵抗力は二乗化することが明らかになっています。 そのため、人間は更にこれを上回る、強力な抗生物質や農薬の開発を研究しなければならない必要性に追い込まれます。 そしてついには、抗生物質や農薬の害が、無視できないほど強力になってきており、例えば、ガン細胞を殆ど死滅させることに成功はしたが、肝腎な人間は死んでしまったという現実が起こります。 今日、多くの癌患者が、医者の薦めで切除手術に踏み切り、あるいはコバルト療法や遺伝子療法を治療を受けて、結局、結果的にはいい結果が得られなかったというのは、こうした事が原因で死亡しているという側面があります。 つまり、同じガンでありながら、一方は一切の治療を受けず、自然食療法で十年も二十年も生き続け、もう一方は医者の薦めで多額の金を出し、最先端の現代医療を受けながら、その生存率は、術後半年未満で60%、一年後には30%、そして五年後には、その殆どが死に絶えると云う現実があります。 これから考えますと、むしろ、ガンと共棲した方が長い寿命が継続できるということが分かります。

●共存共栄と無為
現代医学は差別の医学といえます。その根底には徹底した「差別化」が貫かれています。差別思想そのものが、また現代医学を代表しています。 では平等思想に貫かれた医学というものは、一体どういうものなのでしょうか。 その良い例を幾つか挙げてみましょう。 例えば、中耳炎や蓄膿症で、切開手術もせず、また抗生物質も使わず、じっと断食して水だけ飲んで恢復に向かわせるという方法があります。また風邪を引いた場合でも、一時的に食を絶ち、この状態を数日間続けますと、風邪薬などを用いずに、悪化させたり、こじらせるということはなく、速やかに恢復の方向に向かいます。 食中毒でも、下痢や発熱が起こっても、安易に抗生物質を使わず、二三日食を絶てば、容易に自然治癒するものです。 このような手短な応急処置があることを、皆さんに分かって頂きたいと、私達、大東流霊的食養道研究グループは、思っているのです。 現代医学は、難病・奇病を前にして、益々混迷しております。また、こうした混迷の医療が人類の共通項として長く続くはずもありません。真理は必ず芽を吹くものなのです。 しかし、現実は残念なことに、宗教団体の経営する医科大学病院や看護大学病院では、神の愛、神の慈悲を口に唱えながらも、一方で殺菌剤や、安易に抗生物質が使われ、一見平等に見せかけた、その実、皆殺しの医療が繰り広げられています。そして、然もこの矛盾に全く気付いていないのです。 神の愛を信じ、神の慈悲にすがって、「愛」を説く限り、抗生物質の乱用や、異常細胞の皆殺し医療の罪を、意識するのでなければ、ここに従事する医療関係者の信仰はウソになります。 こうした矛盾に対し、欧米の病院や大学病院では、自然治癒の人間の力を最大限に発揮させて、抗生物質の使用は必要最小限にとどめるという、自然食医療が試みられ、これが大きな成果を収めています。欧米の自然食療法は、例えば盲腸炎の患者には、急性でない限り、安易に切除手術は施さず、約一週間程度の断食を実行させて、これによって自然治癒させるという治療を施し、将来の新しい医学の体系をつくりつつあるのですが、日本の現代医療では、こうしたことは殆ど行われず、「盲腸は、人体に不要なものだ」と極め付けて、即座に切除をしています。 果たして、人体に不要なものが存在するのでしょうか。 例えば、盲腸は他の動物に比べて、人間では「退化してしまった」と決め付けるのは、早計であり、そうした人間側の主観でこれを無意味と葬り去り、切除してしまうのは、まさに人間のご都合主義から生まれた、歪んだ思想であると言えないでしょうか。 もう、随分前になりますが、米国の医学雑誌には、人体における盲腸の必要性の論文が載せられ、この話題が世界を駆け抜けましたが、どういうわけか、日本では、差程問題にならず、マスコミも何ら取り上げることがありませんでした。 また、アメリカの医師でメソジスト病院長である、サティラロ博士が玄米と野菜食で自分の睾丸癌と前立腺癌を治癒させたということが医学雑誌『ライフ』で報じられ、世界的な話題となりましたが、日本のマスコミは医療関係企業や医師会の圧力で、何ら報じられることはありませんでした。 無為とは、無為自然であり、自然のままで作為のないことを言います。これにおいて人知の介入は必要ではありません。 ところが、近代西洋科学はこの中に、人為を持ち込み、作為することで、自然をコントロール出来るのではないかという妄想を持ち込みました。 その妄想は、一体何と結び付いてしまったのでしょうか。 人間十人分が一年間食べられる穀物で、一頭の牛を育て、これを食用にするという徒労と多忙を齎したではありませんか。 これは科学する農業の中で、近代畜産の利益率で、その分、人間は肉牛の美味を満喫できるではないか、という人間側のご都合主義が根底に流れています。 こうした考え方の根本には、いわゆる弁証法的に、左右いずれかが、正・反・合を繰り返しながら、無限に発達し、連鎖するという思想が流れています。 ところが、世の中の姿や、森羅万象を有する大自然は、こうした唯物虚構理論が考え出した弁証法に則って、直線的あるいは平面的に発達するわけではありません。 この世界では、立体的に物事が組み立てられ、遠心的に膨張し、拡散する性質を持っています。 したがってこうしたものが、極限かつ極大に至った場合、破裂、分裂、破壊、崩壊、消滅を余儀なくされます。 しかし極限かつ極大の域を超えた所で、消滅したはずのものが再び反転して、求心的に収縮をし、中心・凝固の方向に向かって再び姿を現わし始めます。 すなわち、有形の形あるものは極限において分解に至り、無に帰着し、無は凝固を経由して有形となり、再び形としての姿を現わします。 こうした自然界の拡大・縮小が実態の本質である限り、自然と融合し、自他共に存在することこそ、今日の現代人が多忙を究め、徒労して精魂疲れ果て、混迷に中に奔走する愚を回避する鍵が、実はこの中に隠されているのではないでしょうか。

●多忙・徒労・混迷を回避する応急処置
【1.睡魔に対する応急処置】
多忙と徒労は、人間に等しい睡眠時間を必然的に短縮化の方向に導きます。これが短くなれば、活動範囲にも制約がかかり、疲労は極限に達して、人間の生活に混迷を齎します。 現在、騒がれている過労死はこうした回避が出来ないばかりに、命を落としたよき例です。 では、私達は現代のこうした現実に対し、どのような回避方法があるのでしょうか。 さて、少食を実行すると、まず、体質改善の最初の変化として「睡眠時間が短縮」できる利点が挙げられます。 今まで八時間寝らなければならなかった人が、四時間とか五時間で睡眠時間が足りるようになり、一日の活動時間が非常に多くなるということです。 贅沢な肉食をしたり、美食に趨ったり、一日に四度も五度も間食して飽食している人は、仕事中や学業中に、あるいは車の運転中に、往々にして眠気に襲われます。 飽食したり、小分けして食事回数を増やすと、その食後には必ず眠気に襲われることは誰でも経験することです。 こうした過食ぎみにある人は、講演会場や、各種学校の受講中に「舟こぎ」をして、大切な時間を無駄に浪費していますが、こうした人の大半は日頃からの過食者で、会費や月謝の無駄払いをしている人達です。 過食者の多くは、例えば、講演会場や恰好の授業などで、耳から入ってくる、講師の声が平坦で単調であればある程、三十分も経たないうちに睡魔に襲われ、「舟こぎ」動作が開始されます。中には、車の運転中に、単調な高速道路を走行中、睡魔に襲われて大事故を起こしたり、それが原因で死亡するという事故は、実は過食が原因であり、この習慣を改めない限り、こうした事故は後を絶ちません。 では、何故、過食に趨る人は睡魔に襲われるのでしょうか。 まず、内臓に相当量の負担が掛かっており、それが疲労しているということが挙げられます。 本来、大喰い癖の人は、大食によって大量の宿便を腸内に停滞させ、それが排泄される量はごく僅かです。またこうした大喰い癖の人は、肉食家であることが多く、この動物性の腐敗物質が停滞し、それが異常なガス化を起こし、この密接な関係によって、思考能力が低下し、頭脳の働きが低下すると考えられます。 こうした頭脳の鈍りは、思考能力を低下させるばかりでなく、併せて頭重の病因をつくり、物事に関して無関心にしてしまう、思考回路が塞がれてしまう結果を、自らの過食で招き寄せているのです。過食や飽食によって、胃腸をはじめとして、肝臓、心臓、腎臓などの疲労と負担が増大していることは、全く疑う余地がありません。疲れるから、睡眠時間を長くしなければならず、疲労回復のために、この時間は徐々に長くなっていきます。 人一倍、疲れやすく、根気が無い人は、夜の睡眠を十分に取りながらも、それでも八時間くらいでは寝足りないという状況に陥って、更に眠りを貪る状態が続きます。そして一日、七時間以上も眠る人の多くは、眠り過ぎという現実の中で、脳全体を眠り過ぎという症状で汚染していることになります。 さて、こうした睡魔に襲われ易い人は、まず、朝食抜きの一日二食を心掛け、少食に徹すればこの問題は即座に解決します。 午後は疲れが酷くて、という人の多くは肉食常食者です。それも過食ぎみであり、三度々々、ご飯は二杯以上お変りして、大盛の食事を欠かさない人です。こうした大喰い癖を改めない限り、睡魔の問題は決して解決する事がないのです。 この少食主義という実践を徹底し、これによって多くの発明を成し遂げた人物がいます。 誰でもご存じの、エジソン(Thomas Alva Edison/アメリカの発明家であり企業家)です。 彼は少食主義を徹底して、数々の発明を実現しました。

▲エジソンは白熱電球や電信・電話機 などの発明だけではなく、「少食主義」という 過食を予防する、偉大な発明も行っていた
その発明及び改良は、エジソン電池や白熱電球をはじめとして、電信機・電話機・蓄音器・無線電信・映写機・電気鉄道などに亙り、電灯会社及び発電所の経営によって、電気の普及を世界に広め、これで大成功を収めた偉大な発明家です。 エジソンは単に物質的な原理に止まらず、精神面においても、食の面においても、発明家であり、「私は研究に没頭しているとき、パンを握って、指から食(は)み出した部分を切り取って捨て、手中に残っているだけの量を、空腹を感じた時だけに食べるようにしました。この少食主義は、強いて云えば、私の大発明です」と言っています。 エジソンが二日も三日も殆ど徹夜状態で研究を続け、短い睡眠時間で研究生活に没頭できた秘訣は、実は少食に徹したことがその秘訣にあったのです。 睡眠時間が短くても、少食に徹すれば、活動時間が十分となり、現代人の中高年層の間で流行している、過労死などの労災事故は、もともと起こらないものだったのです。

【2.疲れに対する応急処置】
昔から、「腹が減っては戦が出来ぬ」ということを言います。果たして本当に、腹が減った状態では、力が抜け、仕事が出来なくなるのでしょうか。 こうしたことを結論から述べますと、これは必ずしもそうだとは言い切れません。この場合の空腹とは、二三日の絶食状態を指すのではなく、せいぜい一食もしくは二食の場合であり、長くて一日程度の絶食を指します。 果たしてこの程度の絶食で、本当に力が抜け、仕事が出来ない状態に陥ってしまうのでしょうか。 多くの少食体験者や断食実践者の報告からしますと、むしろ一・二食程度抜いた場合の空腹の方が、三度々々欠かさず食事した時よりも、快調であったという結果が出ています。 もしこのような空腹期間に、不調や脱力感を訴える人は、胃下垂症か、潜在性糖尿病である場合が多く、あるいは他の病的症状にあるといえます。 健康な人であれば、一・二食程度抜いたからといって、力が抜けたり、眩暈がしたり、冷や汗が出るということは決してありません。 少食体験者の報告では、初期状態において、空腹時に異常な脱力感に襲われたり、軽い頭痛などを訴える人がいましたが、躰がそれに慣れ、順応していくと、急に躰が軽くなり、空腹時の方が快調になって、仕事や活動がスムーズに行えたと報告しています。 そして無理をしても、疲れは殆ど感じなかったとも言います。 少食の習慣が一旦身に付きますと、睡眠時間は短くて済み、心身は身軽になって快調になり、疲労が少なく、頭脳も明晰になって、人の数倍も働けるという事実は、エジソンの少食主義を見ても明らかなことです。

【3.肌色や肌の張りに対する応急処置】
飲酒や喫煙をせず少食を実行している人は、殆ど例外なく、皮膚が奇麗で、張りがあります。 大食者や過食者は、大量の宿便を腸内に溜め込んでいるため、その宿便である腐敗物質から有毒性ガスを発生させ、これが腸壁から吸収されて、その一部の反応として、吹き出物やシミ、ソバカスやニキビとなって皮膚に現われてきます。 肉や乳製品、牛乳や卵、ケーキなどの白砂糖やバター食品を毎日飽食し、その結果、便秘となって腸内に大量の宿便を溜め込んでおきながら、鏡の前でベタベタと長い時間を掛けてお化粧をする女性の姿は、何とも滑稽な姿であると言わねばなりません。 健康においては、外側に気を遣うより、もっと裡側に気を遣いたいものです。 完全栄養の玄米菜食に切り替え、少食を徹底すれば、頑固な色素定着も、次第に色が薄れていくものなのです。

【4.公害食品から身を護る応急処置】
日本は食材料の61%を外国に頼り、国内生産自給率は僅かに39%に過ぎません。特に大豆の自給率は10%以下で、多くはアメリカに頼っています。 また葱やその他の葉野菜などは、大量に中国などから輸入され、その品質基準は厚生労働省の基準に満たないものが多くあります。そしてこれらの農作物には大量の農薬が散布されていて、人体には究めて有害です。 水産物も多くは外国産であり、また日本近海の魚の中にはダイオキシン(猛毒で、発癌性や催奇形性が強い。枯葉剤にも使われ、これは毒性が強く、散布地域に癌・先天性異常・流産・死産などが多発する要因になった)汚染の危険性が叫ばれていて、安全なものは徐々に減ってきています。 最近の市販食品は、その殆どが各種の食品添加物で加工され、その有害性が指摘されながらも、これが未だに解決していません。 タール系の色素を使って着色された、佃煮や海苔、たくあん、菓子類、更には酸化防腐剤を使ったバターやハム・ソーセージ、漂白剤を使った里芋や蓮根、食事を通して体内に入ってくる食品添加物(防腐剤・防虫剤・漂白剤・人工甘味料・着色料など)と多くの有害性食品が市販されています。こうした食品添加物は、一方、化学調味料と密接な関係をもって、結び付き、その多くは慢性毒性、発癌性、催畸形性の疑いがあるにもかかわらず、それが検討されずに市場に出回っています。 こうした市販食品を食べ、それに併せて農薬の付着した野菜や果物、出来合いの市販惣菜などの含めますと、一日平均約13〜15gの有害性食品を食べている計算になります。(九州科学技術研究所統計調査より) こうした事を考えますと、まず、自衛策として、こうした有害性の食品を摂取しないためには、純正自然食品を中心に、玄米菜食にして、少食主義を徹底することが肝腎であり、安易に「行列の出来る店」などに列をつくらないことです。体内に侵入する食品添加物の量は、極力少なくしなければなりません。 少食で簡素な食生活を徹底すれば、食費の節約になり、更に節食に繋がります。家庭の経済が楽になることは受け合いです。 もし国民の一人一人が少食主義を守り、その上に朝食を抜いて昼食と夕食のみに徹すれば、かなりの食費が節約できるわけで、食事メニューも粗食に切り替え、以上を実行した場合、一日の二食の一人分の食費は多くても500円程度になり、国民全体がこれを実行すれば年間に十二兆円くらいは節約できる分けで、これは医療費に匹敵する巨額な金額といえます。 今、日本は未だに飽食の時代にあります。多くの日本人は、その殆どが食傷に犯されています。これは日本人の病因の発生率の最も高い「ガン」という細胞異常の状態からも、明らかになります。 今や日本は、民族存亡の淵に立たされています。 これまで唯一の拠り所であった、驚異的な経済成長も鈍化から停滞を余儀なくされ、頼るべき何物(例えば日本人の血と汗の結晶であった800兆円の郵貯の目減り)も奪い取られ、国民は不況下で右往左往するばかりです。 歴史を振り返れば、こと、経済に限らず、こうした崩壊の元凶は、既に第二次大戦の敗戦直前にヤルタ会談と共に種が蒔かれました。 第二次大戦末期の1945年2月、米・英・ソの三国の最高指導者であるルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが、ヤルタで行なった会談は、ドイツの敗北が決定的となった情勢下に、降伏後のドイツ管理、国際連合の召集などについて協定し、併せて「ヤルタ秘密協定」が、この会談で結ばれました。これを「対日秘密協定」と言います。 ドイツ降伏後三ヵ月以内に、ソ連が対日戦争に参加することを条件として、南サハリン(樺太)・千島列島のソ連への引渡し、中国の満州における完全な主権の確認などを決めたものでした。こうして日本人の文化破壊は刻々と進められ、悲惨な敗戦を経験することになります。 これ以来、日本人は、古来より受け継いで来た日本民族の美点も智慧も、一緒くたに放擲する現実が生まれたのです。 日本人にとって、これは当然すぎる結果だったかも知れません。 そして、それを救い、日本及び日本人を本然の姿に戻すには「食の改革」以外に道はありません。 食改革により、無限の可能性を秘めた若い世代のエネルギーに託して、今日の日本人の精神的空虚さ、脆弱さを正していかない限り、日本はその魂を欧米に売り渡し、属国としての道しか残されていないことになります。そうなれば、もはや亡国と言う他ありません。 あなたは今の日本と日本人が、「どこかおかしい」と、お気付きにならないでしょうか。

【5.自己暗示力による応急処置】
美味に舌鼓を打ち、美味しい物を腹一体食べると言ったことが、「食べる贅沢」であるとするならば、空腹トレーニングを実践して「食べないことの贅沢」が、もう一方で存在します。 一般に食べ過ぎで病気になるという害については、糖尿病などを見ますと、これは明らかに食べ過ぎによる害です。 少食を実行し、空腹トレーニングで食傷の疲れを癒していきますと、食禄も長持ちし、長く生き残れることになります。 例えば、人間一人の食禄(人間の一生の食糧)は主食で約6000kgと言われます。 これを一年で150kgずつ消費しますと、四十年で食い潰されてしまいます。ところが少食を決断してこれに切り替え、一年間の消費量を100kgに抑えますと、6000kgを食べ終わるまでに六十年掛かりますから、この人がもし現在二十歳であるとすれば、少なくとも六十歳以上生きれることは確実であり、今日の平均寿命の延びからも考えても、七十歳位までは延命することが出来ます。こうして考えていくと、食禄の消費量を減らせば長生きが出来、増やせばそれだけ早く寿命を縮めることになります。 このように考えていけば、他人の飽食を横眼に、悠々と孤高を持し、決して食べ急がず、「食べないことの贅沢」も、また一つの贅沢であり、それは長寿に繋がる大きな秘訣となります。 人間は空腹時に、「美味しい物を、思う存分、腹一杯食べて見たい」という誘惑に駆られます。しかし、その誘惑は食傷への誘惑であり、病気への誘惑です。 さて、そうした愚を避けるために、自己暗示を掛けて、誘惑に打ち勝つことが肝腎です。

一、空腹トレーニングで健康になる。
一、空腹トレーニングで長生きができる。
一、空腹トレーニングで頑張りのきく躰になれる。
一、空腹トレーニングで頭脳明晰となる。
一、空腹トレーニングで肌が美しくなる。
一、空腹トレーニングで運が開らかれる。

以上の六項目を繰り返し、これを心の中で念じ、腹八分から一歩先出て、腹七分か腹六部で満足できる生き甲斐を覚える事こそ、急務ではないのでしょうか。 また薄味に徹することで、食物の持つ本当の味を知り、今日一日生きられたことを感謝して、「生かされるという因縁」に畏敬の念を捧げる事こそ、本当の食養道に至り、そこから新たな人生の本当の意味が見えてくるのではないでしょうか。 食べ過ぎで多くの人が難病・奇病、そして現代医学では不治の病と称されるガンで命を落としています。癌治療における、除去手術や抗癌剤の投与では、間違いなく五年以内に、これ等の治療を施された人は100%死んでいます。 反対に、食べないで死んだ人は、余り見掛けないのも事実です。 敗戦直後、日本人は食糧難で汲々としていました。ところが食べられないで死んだという話は、余り聞きません。(確かに敗戦直後、闇米などに手を出さず、配給米だけを食べて餓死した裁判官が一人居たが……) むしろ現代の、食べ過ぎで死んだ人の話の方が、数え切れない位あります。 一部のシンパの人が宣伝する、敗戦直後の餓死の話を持ち出しますが、こうた餓死の数と、今日の、食べ過ぎで難病・奇病で死んで行く人の数を比べれば、圧倒的に後者の方が数百倍も、数千倍も上回ります。 今、私達日本人の望まれる、一つの理想は、食べ物の執着から離れ、何か別の目標を定め、それに到達すべき精進をしなければ、私達は到底人生を全うすることは困難になってきます。私達は、もともと人間として、食を乱し、美食に明け暮れるために生まれて来たのではないのです。 人類の歴史の中で、偉業を成し遂げた人は、人生に目的があり、目的を定めるために目標を設定しました。エジソン然りです。彼の精進は、今日、偉大な発明として、新たな目的を人生に与えました。 しばし「食を忘れる」という生活があってこそ、人は精進し、何がしかの成就を達成するのです。 人間が晩年に向かう時、六十歳・七十歳という年齢は、総合した力倆(りきりょう)に相応しく、既に人格完成の域に入っていなければなりません。ところが自身にこうした自力がなければ、その成就は到底叶いません。 まず、健康への着実な足固めは、少食に勝るものはありません。
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