●人間の役目と自然の役目
西洋近代科学は科学することによって、自然を知り、自然を利用し、自然を征服し、自然を管理することにその基準を併せ、これまで奔走してきました。 ところがこの奔走は微視的視野に留まり、単に科学知識を分化的に寄せ集め、分類したに過ぎませんでした。 生きている統一された自然は、紛れもない生命体であり、分解も解体も許されない「大いなる」ものです。したがって自然は分解されれば死滅します。 自然を分解し、分析し、分離し、その結果に基づいて種別ごとに箱別けしたところで、それは死滅した粉々の、死骸の自然でしかありません。 これまで西洋近代科学が、自然を知り、管理したことに成功したと考えるのは、近代科学者の思い上がりであり、利用する、管理するという暴挙は、とんでもない間違いです。 何故ならば、その出発点において、自然を把握する方法論が間違っているためであり、間違った基盤の上に、いくら新しい理論を構築しても、その立脚点は自然からかけ離れたものになってしまいます。その間違った、かけ離れた理屈の上に、唯物弁証法を用いて、如何に合理的な思考を積み重ねて見たところで、総て根本に誤りがあるので、これは「自然を知る」という大それた思い上がりが、既に虚構理論であるということが明白になります。 もともと自然には、生もなく、死もありません。 また大小も、盛衰も、強弱もありませんでした。ところが文明は、近代農業や近代耕作法に至って、害虫を作り出し、天敵を作り出しました。 近代科学に立脚した近代農業や近代耕作法は、自然を弱肉強食の荒々しい、矛盾に充ちた相対界の代物と極めつけました。その結果、農作物の収穫に農薬が遣われ、田畑を耕すのに耕運機やトラックターが遣われるようになりました。 水田耕作という農耕技術も、これを持ち込んだのは弥生時代以降のことであり、もともと縄文期には水田耕作という技術はなく、大陸や半島で盛んに行われたこれらの技術とは無縁でした。 ところが弥生時代になると、田に水を入れるという、弥生人の技術が主流をなすようになりました。以降、田の土を捏(こ)ねる方法として、牛馬が遣われました。 近代農業に至っては、牛馬に代わり耕運機が投入されて、田を掻き回すという農耕技術が主流をなし、田の土は練に練られて壁土のようになってしまいました。田が壁土のようになれば、固くなって、土は死んでしまいます。死んだ土を何とか柔らかくしようとして、毎年耕耘作業を行います。 つまり、人間は近代に至って、科学する農業が生まれ、耕運機が役立つような、あるいはオートメーション化して、トラックターが役立つような条件を作っておいて、機械化農業が価値ある農業として一喜一憂しているという近代農法が生まれたのです。近代農業が石油に浮かぶ産業といわれるのはこのためです。 さて、害虫が発生すれば、水銀たっぷりの農薬で駆除し、天敵が現われば、それに勝る化学薬品を田畑に投入します。 だから近代科学農業は、雑草や害虫を敵と決め付け、その駆除にやっきになります。これこそ愚かな鼬(いたち)ゴッコであり、「一切無用の自然界」に、無駄な人力を投入するという現実が生まれました。 耕運機やトラックターと、化学肥料で生きた土を殺し、夏中深水にして作物に根を腐らせ、軟弱な病体質の植物を育て、早熟作物を作り出すために化学肥料と消毒剤が遣われました。 つまり農作物が健全でないから、化学肥料と消毒剤が盛んに遣われ、堆肥作りで苦労するという農業の現実を作り上げてしまったのです。 原点に戻り、土は土、草は草、虫は虫の世界があり、土に任せることをせず、草に任せることをせず、また虫に任せることを拒み、いつしか自然農法が近代的科学農法にとって代わられ、確実に大地を殺し、広大な自然を猛烈な速度で蝕む現実が生まれました。

●近代科学の錯誤と大いなる誤算
近代科学農業は、人間の欲望を全面に打ち出し、遠心力的に拡散・膨張させる農法を基本に置いています。その基本原理は、自然を管理し、自然から離脱するという遠心力的な農法であり、それは人間の欲望を煽るだけの農業技術に置き換えられています。 その結果、人間は自然の大きな懐(ふところ)から離れ、宇宙の孤児として、もともと還るべき自然を破壊して、目的の安住の地を見失ってしまいました。 科学者達は、自然から離れることを第一番目の目標に掲げ、大都会はビニールハウス擬きの「被い」を掛けて、冷暖房や通風装置を設置して、その中で都市型未来都市を夢見ています。そのため、都会人は明るい自然の陽の光りを知らず、緑の田園風景を知らず、動植物やそよ風に肌を委ねる心地よさすらも知らなくなりました。 至る所がアスファルトとコンクリートで被われ、大地の上を裸足で歩くという、大自然との交流を忘れてしまいました。 科学を第一とし、それを裏付ける唯物弁証法的な近代科学を根本理念において、大自然の中心から離脱し、拡散・膨張する道を選択しました。ここに遠心力的に離脱する分裂の現実が生まれたのです。 しかしこうした現実の中で生まれたものは、期待した巨大都市の発達や経済的活動の急激な膨張によって金融経済を著しく向上させましたが、一方において、人間疎外の空しさを作り上げ、自然を乱開発する、生活環境の破壊に他なりませんでした。 そして自然から孤立した空虚な人間生活が置き去りにされただけでした。 生命と魂を向上し、発展して霊的神性を高める源泉は既に枯渇し、人間は、単に寸刻みの多忙に追われて、時間と空間を競うばかりの競争原理の中に取り残されてしまったのです。そしてこうした現実から、新たに発生したのが奇怪な文明の、「文迷」という現実でした。 では、こうした「文迷」は、人間に何をもたらしたのでしょうか。 喩えば、林檎(りんご)の樹木や、温室のイチゴ栽培を考えて見て下さい。科学万能主義はこうした樹木に、より高い収穫率をもたらすために劇毒剤を散布するという方法を用いました。その結果、訪花昆虫であるハチやアブを死滅させ、今度は人間が訪花昆虫に代わって、花粉を採取し、その採取した一つ一つを人間の手で花に花粉をつけて回るという、人工授粉の方法を用いなければならなくなったのです。 本来ならば、自然のうちに無数の動植物や微生物が動き回って働き、結実させるという自然界の仕組があったのですが、それを無視して、その代役として人間が多忙に動き回るという、徒労の現実を作ってしまったのです。 人工授粉の光景は、まさに悲喜劇であることは明白な事実ですが、あなたはこれを如何がお思いでしょうか。 また、これが徒労であることは、決して疑いようもなく、科学万能主義は、実は人間に多忙と、徒労をもたらしただけではなかったのでしょうか。


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