●宇宙に遍満する七十五音の言霊
『ヨハネの福音書』第一章には「初めに言葉ありき」と言うことが上げられ、 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによって出来ていた。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は、人の光であった」と記されています。
これはまさに真理を述べたものと言えましょう。
また宇宙に遍満(へんまん/あまねくみちふさがること)する言霊として「アイウエオ五十音」に濁音、半濁音を加えた七十五音の言霊があります。この音節は日本語そのものです。
この言霊を完全に発声できるのが日本語を遣う日本民族です。五十声音から重複音を除いて「ン」を加えた音声が四十八音で、これを「四八音」(ヨハネ)と言います。
この「四八音」の一音一音が「神の名」となっていて、これを「型神名」(カタカムナ)と言い、「カタカナ」を現わします。
こうして考えると、言霊と食物は密接な関係があることが分かります。
穀物菜食主義を徹底すると言霊は、清く澄み渡り、濁りや歪のない、正しい発声が可能となります。この清音によって三千世界の神々との交流が可能になります。それは霊的波調が植物性の食べ物によって「密」に保たれ、清く澄み渡っているためです。
しかし、グルメを気取り、美食に溺れ、肉食を常習する人達は、血液が濁り、言霊も濁り、ために霊的波調が粗くなり、霊的神性が下がって彼等の交信する次元は低いものになり、交流する霊は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類のなり、不倫、怪我、事故、争い事などの不幸現象に見舞われます。
●大東流霊的食養道を全うして食改革
食が乱れ、食に慎みがなくなると、世の中は自ずと乱れます。
人類の歴史は、欲望の歴史ですが、その側面に飢餓の歴史があり、食える者と食えざる者が居たことを忘れてはなりません。
政権争いや、戦争による領土の争奪は、一方において、食える者と食えざる者の戦いでした。こうした飢えからの解放に向けて、人類は奔走したという歴史を持っています。豊かな、農作物が実る、緑の大地を求めて、人類は争奪戦を繰り返したと言っても過言ではありません。
主導権争いに先駆けて、君主は自国民を食わせてこそ、王たる資格を得たのです。
「衣食住そなわって礼節を知る」とは、この事を如実に現わしています。
しかしこの「衣食住」のうち、神から本当に授けられたものは、衣食住のうち、「食」だけであり、衣類も土地も家も、神からの預かりものであるということを忘れてはなりません。
いつの頃からか、人々は衣類も土地も家も私有財産の一部と思い込み、食だけが神から授かったものであるということを忘れてしまいました。
この事は、親子孫三代に亙って同じ土地、同じ家を維持している人が極めて少ないと言う理由からも窺えます。
かつて祖父の代は大地主であった。ところが子の代になって、子は放蕩息子に成り下がり、孫の代に至っては、売に出され、一家が離散したと言う話は全国津々浦々五万とあります。一時期住み着いた先祖からの土地も家も、永遠なものでないということが分かります。
また、衣類にしても、子供の時に着ていたものは、年齢と共に着られなくなり、衣類すら、自分自身には永遠のものでないことが分かります。
したがって「食」だけが人間に与えられている、「今の食べ物」であるということが分かります。少なくとも主食においては、同じものが与えられます。
そして「食の原点」を振り返った時、食は節食し、捧げてこそ、開運に至り、病気が治るという事が分かります。それは人間界が、神の庭の上に展開されているからです。
太古の日本人は山を見て神を感じ、川を見て神を感じ、海を見て神を感じました。そして風も神、雨も神、天地悉々(ことごと)くが神であり、草木も神でありました。
だからこそ日本民族は神を祀(まつ)る民族で、五穀豊穰(ごくほうじょう)の儀式は神を祀った、神への感謝と供えの儀式でした。大地から採れた農作物をまず、神のお供えし、それを頂いたのが人間に与えられた食べ物でした。
「腹八分」とは、こうした神への供物が「二分」で、残りの「八分」を臣民が頂くという事だったのです。臣民腹八分とは、実は二分を神の感謝に捧げるという事だったのです。そしてこれは同時に、「節食」を現わしたものでもありました。
また太古の日本人は、今日の現代日本人よりも、遥かに優れた自然観を持ち、その魂は正しく、清らかに、濁りなく、澄み渡っていたものと推測できます。
特に縄文期の日本人は、生まれながらにして自然の至る所に神の居ることを感受でき、人間本来の「霊的能力」を十二分に発揮していたと考えられます。自然の一部始終を捕えて、神を見、そこに畏敬の念を抱き続けたのでした。
彼等は神と共に在(あ)り、神と擦れ違う今日とは大きな隔たりがありました。
私達日本人は、もう一度こうした太古の日本人の精神に立ち帰る必要があります。穀物菜食によって、食改革を推進する意義がここにあります。
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