●食と言霊の関係
さて、大自然から人間に許された食物は穀類と野菜類のみであり、日本民族は食体系を穀物菜食主義で護り抜く必要性があります。その大きな理由は、言霊を真に活用するために、一切の動物の肉を排除し、血液を濁らせてはならないからです。 動物の肉を摂取すれば、血液は今までに述べた通り、濁り、穢れ、体内のあらゆる箇所を汚染して、霊的神性を曇らせるからです。 霊的神性が曇れば、「見通し」の利かない状態になり、澄んだ言霊が破壊されるからです。清浄な血液の通う人体を養うには、肉食を避けることは勿論のこと、三白癌と言われる白砂糖、塩化ナトリウムを主体とする漂白精製塩、白小麦粉で作られた白パンなども不可となります。言霊七十五清音を正しく、完全なものにするためには不可とされた食物を避け、霊的神性をより以上に向上させて、清音なる発声器官を通じて宣(の)りを上げる祝詞(のりと)や神示を三千世界に響き渡るようにしなければなりません。 人間一人一人の行動は言霊に委ねられ、動物性や三白癌が入らぬ、濁らない言霊のみが真の意力を発揮します。行動と言霊を一致させるためには、「言霊が濁っていない」ということが必要不可欠になるからです。 しかし今日、美しい日本語は忘れ去られて遣われなくなり、横文字だけが支配する欧米文化が幅を利かせています。こうしたことが日本文化や日本精神を否定し続け、唯物弁証法に翻弄された、悪しき大衆操縦だったのです。 マルクスの社会主義・共産主義虚構理論は、実は言霊破壊に端を発していたのです。肉を食べれば血が穢れ、魂は曇り、霊的神性は低下するという医学的根拠において、この思想は背後からサポートされ、階級闘争というプロレタリア独裁という虚構理論を捏ち上げ、前衛主義を則って、ひと握りの支配層と、その他多数の奴隷層を構築し、ひと握りが全体を自在にコントロールするという現実が社会主義国家で生まれました。 こうして虚構理論に、ある種の済(すく)いを求めた知識階級が殺到しましたが、それは精神文化を破壊し、しいては言霊を破壊するテーゼの一環に過ぎませんでした。 そして社会主義が崩壊した現実を見ると、この虚構理論は一種の「外圧・外流」であったことが分かります。 もともと神から降ろされた気は、直流的に人間の心に届いていました。しかし食を乱し、外圧的思想に入れ上げ、虚構理論に信憑性を抱き、それに人民の済いがあると信じた時、その唸波は歪を生じます。その歪は横道にそれ、「外流」となります。 外流は霊界・幽界・地上界とある中の、幽界と地上界の間を流れる邪気の流れであり、食によって霊的神性を曇らせた人や、心に歪のある人、波調の粗い人、影のある人がその想念に冒され易く、ついには外流の影響に強く左右されてしまいます。 想念は言霊を基本とした想像の作用を伴いますから、本当はもともと存在しないものですが、想念を作り出すことによって顕在化します。無き世界が具現されるのです。 この具現は、信奉し、入れ込む人が多くなればなるほど、巨大化して、霊的組織が構築され、その信奉の範囲で物質界に実体化して現われてくるのです。 そして無いはずの地獄も、地獄的想念を持っていれば、また、そういう信奉者(肉食主義者で波調の粗い人)が増えれば、実際にそうした世界が現われます。 ヨハネの「初めに言葉ありき」という、言霊を思い出して下さい。

●大東流霊的食養道で言う、天地から許された食べ物
天地から許された食べ物は、人間の性(さが)より遠い、穀類と野菜類と、周辺の海から採れる海藻類のみです。そしてこれからも、人間に最も適した食べ物は、穀類と野菜類と海藻類のみです。 したがって天地から許された以外の食べ物(四ツ足などの肉や乳製品、鶏肉や卵、鯨や大型の高級魚など)を食べると、それ自体で宇宙の玄理や、秩序から反することになり、病気や怪我や争い事が起こります。これを総じて不幸現象といいます。 特に四ツ足などの哺乳類は、同じ水冷式の哺乳類である人間の性(さが/相とも。もって生れた性質や宿命)と同じ感情を持ち、屠殺される時に、己の肉を食べる人間に恨みの念を残します。したがって仏教でも動物への殺生禁断(五戒のうちの不殺生戒)を設け、これを禁止していますが、既に日本では邪馬台国の頃から、神に通じる回路(霊的感受性を高める)を開くためには食肉をしてはならないという考えがありました。これが「遠くて近いものの食」という思想で、これを「身土不二」(しんどふじ)と言いました。 牛や豚や羊や山羊(やぎ)などの四ツ足動物は極めて人間の性に近いものです。同じ感覚と感情を持っています。彼等は屠殺の前日になると、自分が殺されることを悟り、大粒の涙をこぼします。そして自分を食べる人間に対して「恨みの念」を残します。 逆に穀物や野菜や海藻などは植物性なので、人間の性より遠くなり、こうした感情は動物に比べて極小値に近いものになります。 だから「遠くて近いもの」を食べるという思想が生まれ、これが身土不二へと発展しました。 人間の肉体は自分の生まれた土地、あるいは棲んでいる住環境と密接な関係を持ちます。その土地の風習、風土、環境、磁場などの影響を受けて生きています。したがって人間はこうした棲んでいる土地の条件下で様々な影響を受け、いわばこれが渾然一体となっています。これが大自然という大きな生命体の中で呼吸し、霊気を受け、人体を養いながら、人生を修行の場として人間道を全うしているのです。 自分の棲んでいる土地を霊的な見方で探究すれば、その土地の土産神(うぶすなのかみ)の気(霊気や磁場)を頂くことにより、自分の気を養うことになります。これが人は、「土から生まれた」という所以であり、人は土から生まれて、土に戻るという順環の中で生きているのです。その土地の風土や環境の中から育まれた農作物を食べ、己の魂を養っているのですから、人はまさしく「土が肉体化した」と言えましょう。 この事から、世界の人民は、それぞれの国や地域において、民族としての風土や環境や習慣においてそれに順応し、自分達の生まれた土地の食べ物の栄養分と、土地特有の特異な霊気を受け、それを食べるような、大自然生命体の仕組になっているのです。 しかし近代は、十六世紀の大航海時代を幕開けに、地球を行き来する交通機関が発達を極め、地球間の距離が非常に近いものになってしまいました。またこれ等の発達により、「旬のもの」という感覚が薄れ、食べ物に季節感がなくなってしまいました。他国の食べ物が容易に手に入り、乳製品を食する人の食べ物が、農耕民族に食べられたり、また、夏食する物を冬に食したり、海辺に棲む人が山間地の食べ物を食べたりして、風土や習慣に狂いが生じ始めました。 もともと、慎ましく、正しい食物を食すればよかったものを、地域を越え、国境を越えて、その国では本来必要でなかった食べ物を食べ始めたのが、争い事の始まりになり、金持の一民族が何もかも独占してしまうという現実の中に、混沌とした世情・世界が出現したのです。 今日の混沌とした社会情勢は、こうした民族の風習や風土を越えた、濁りある食べ物を人間が口にし、血液を汚し、霊的神性を低くして、災いの種を蒔き散らしているからです。そして日本人の飽食や美食主義は、当然責められるべきです。 もともと人間にとっての必要な栄養バランスは、穀物や野菜や海藻のみで十分に摂取できるようになっており、これ以外のものを食する必要は全く無いのです。 人間が健康体を維持し、栄養補給をしていく上で、その栄養素は総て穀類や野菜類や海藻類の中に含まれており、蛋白質、澱粉、ビタミン群、ミネラル、鉄分、アミノ酸、脂肪などは植物性食品で賄うことが出来ます。 一方、食肉類においては蛋白質や脂肪は非常に多いものの、逆に植物性に含まれる栄養素は殆ど抜け落ちています。 植物性食品のみを食べていると、栄養不足になる、としたのは現代栄養学の妄想であり、科学的根拠がありません。 植物性食品の優れた面を食肉類に比較すると、喩えば大豆は食肉類よりも良質の蛋白質を多く含み、古来より「畑の肉」(この肉の意味は、人体のものと同じものを指す)と称されてきました。 また現代人は、カルシウムを摂取しようとして牛乳を多く飲みますが、牛乳内の含有カルシウム量は思ったほど多くなく、カルシウム量を多く含むのは遥かに海藻類の方が優れていますし、それに準ずるものに貝類や小魚類が上げられます。 そして海藻類の中では、ヒジキが牛乳の12倍以上もカルシウム含有量が多いことが栄養学では確認されています。 更に穀類の一つである玄米を上げれば、玄米の中には良質の澱粉質を多く含有し、更にはビタミン群が含まれ、それに準ずるものとして、ミネラル、鉄分、アミノ酸、脂肪も含まれています。このように植物性のみの摂取で総ての栄養素は賄えるのです。 しかしこうした現実の中にありながらも、現代栄養学は植物性食品の中にビタミンB12のみは植物性食品の中には含まれていないことを厳しく指摘し、これを以て「栄養不足になる」と豪語しています。その理由は、ビタミンB12という栄養素は卵やレバーなどの動物性食品のみが含有している栄養素だからです。 ところが、こうしたビタミンB12は、発酵食品である味噌や納豆の中にも、そして海藻類の中にも含まれていて、敢えて卵やレバーなどの動物性食品を摂る必要はないのです。 以上述べたことを整理すると、植物性食品は栄養学的見地から見ても、動物性食品に比べて格段に優れていることは一目瞭然であり、その上に言霊の、濁りのない、清らかな、正しい発声が可能であるということが上げられます。

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