●食と言霊の関係
さて、大自然から人間に許された食物は穀類と野菜類のみであり、日本民族は食体系を穀物菜食主義で護り抜く必要性があります。その大きな理由は、言霊を真に活用するために、一切の動物の肉を排除し、血液を濁らせてはならないからです。 動物の肉を摂取すれば、血液は今までに述べた通り、濁り、穢れ、体内のあらゆる箇所を汚染して、霊的神性を曇らせるからです。 霊的神性が曇れば、「見通し」の利かない状態になり、澄んだ言霊が破壊されるからです。清浄な血液の通う人体を養うには、肉食を避けることは勿論のこと、三白癌と言われる白砂糖、塩化ナトリウムを主体とする漂白精製塩、白小麦粉で作られた白パンなども不可となります。言霊七十五清音を正しく、完全なものにするためには不可とされた食物を避け、霊的神性をより以上に向上させて、清音なる発声器官を通じて宣(の)りを上げる祝詞(のりと)や神示を三千世界に響き渡るようにしなければなりません。 人間一人一人の行動は言霊に委ねられ、動物性や三白癌が入らぬ、濁らない言霊のみが真の意力を発揮します。行動と言霊を一致させるためには、「言霊が濁っていない」ということが必要不可欠になるからです。 しかし今日、美しい日本語は忘れ去られて遣われなくなり、横文字だけが支配する欧米文化が幅を利かせています。こうしたことが日本文化や日本精神を否定し続け、唯物弁証法に翻弄された、悪しき大衆操縦だったのです。 マルクスの社会主義・共産主義虚構理論は、実は言霊破壊に端を発していたのです。肉を食べれば血が穢れ、魂は曇り、霊的神性は低下するという医学的根拠において、この思想は背後からサポートされ、階級闘争というプロレタリア独裁という虚構理論を捏ち上げ、前衛主義を則って、ひと握りの支配層と、その他多数の奴隷層を構築し、ひと握りが全体を自在にコントロールするという現実が社会主義国家で生まれました。 こうして虚構理論に、ある種の済(すく)いを求めた知識階級が殺到しましたが、それは精神文化を破壊し、しいては言霊を破壊するテーゼの一環に過ぎませんでした。 そして社会主義が崩壊した現実を見ると、この虚構理論は一種の「外圧・外流」であったことが分かります。 もともと神から降ろされた気は、直流的に人間の心に届いていました。しかし食を乱し、外圧的思想に入れ上げ、虚構理論に信憑性を抱き、それに人民の済いがあると信じた時、その唸波は歪を生じます。その歪は横道にそれ、「外流」となります。 外流は霊界・幽界・地上界とある中の、幽界と地上界の間を流れる邪気の流れであり、食によって霊的神性を曇らせた人や、心に歪のある人、波調の粗い人、影のある人がその想念に冒され易く、ついには外流の影響に強く左右されてしまいます。 想念は言霊を基本とした想像の作用を伴いますから、本当はもともと存在しないものですが、想念を作り出すことによって顕在化します。無き世界が具現されるのです。 この具現は、信奉し、入れ込む人が多くなればなるほど、巨大化して、霊的組織が構築され、その信奉の範囲で物質界に実体化して現われてくるのです。 そして無いはずの地獄も、地獄的想念を持っていれば、また、そういう信奉者(肉食主義者で波調の粗い人)が増えれば、実際にそうした世界が現われます。 ヨハネの「初めに言葉ありき」という、言霊を思い出して下さい。

●大東流霊的食養道で言う、天地から許された食べ物
天地から許された食べ物は、人間の性(さが)より遠い、穀類と野菜類と、周辺の海から採れる海藻類のみです。そしてこれからも、人間に最も適した食べ物は、穀類と野菜類と海藻類のみです。 したがって天地から許された以外の食べ物(四ツ足などの肉や乳製品、鶏肉や卵、鯨や大型の高級魚など)を食べると、それ自体で宇宙の玄理や、秩序から反することになり、病気や怪我や争い事が起こります。これを総じて不幸現象といいます。 特に四ツ足などの哺乳類は、同じ水冷式の哺乳類である人間の性(さが/相とも。もって生れた性質や宿命)と同じ感情を持ち、屠殺される時に、己の肉を食べる人間に恨みの念を残します。したがって仏教でも動物への殺生禁断(五戒のうちの不殺生戒)を設け、これを禁止していますが、既に日本では邪馬台国の頃から、神に通じる回路(霊的感受性を高める)を開くためには食肉をしてはならないという考えがありました。これが「遠くて近いものの食」という思想で、これを「身土不二」(しんどふじ)と言いました。 牛や豚や羊や山羊(やぎ)などの四ツ足動物は極めて人間の性に近いものです。同じ感覚と感情を持っています。彼等は屠殺の前日になると、自分が殺されることを悟り、大粒の涙をこぼします。そして自分を食べる人間に対して「恨みの念」を残します。 逆に穀物や野菜や海藻などは植物性なので、人間の性より遠くなり、こうした感情は動物に比べて極小値に近いものになります。 だから「遠くて近いもの」を食べるという思想が生まれ、これが身土不二へと発展しました。 人間の肉体は自分の生まれた土地、あるいは棲んでいる住環境と密接な関係を持ちます。その土地の風習、風土、環境、磁場などの影響を受けて生きています。したがって人間はこうした棲んでいる土地の条件下で様々な影響を受け、いわばこれが渾然一体となっています。これが大自然という大きな生命体の中で呼吸し、霊気を受け、人体を養いながら、人生を修行の場として人間道を全うしているのです。 自分の棲んでいる土地を霊的な見方で探究すれば、その土地の土産神(うぶすなのかみ)の気(霊気や磁場)を頂くことにより、自分の気を養うことになります。これが人は、「土から生まれた」という所以であり、人は土から生まれて、土に戻るという順環の中で生きているのです。その土地の風土や環境の中から育まれた農作物を食べ、己の魂を養っているのですから、人はまさしく「土が肉体化した」と言えましょう。 この事から、世界の人民は、それぞれの国や地域において、民族としての風土や環境や習慣においてそれに順応し、自分達の生まれた土地の食べ物の栄養分と、土地特有の特異な霊気を受け、それを食べるような、大自然生命体の仕組になっているのです。 しかし近代は、十六世紀の大航海時代を幕開けに、地球を行き来する交通機関が発達を極め、地球間の距離が非常に近いものになってしまいました。またこれ等の発達により、「旬のもの」という感覚が薄れ、食べ物に季節感がなくなってしまいました。他国の食べ物が容易に手に入り、乳製品を食する人の食べ物が、農耕民族に食べられたり、また、夏食する物を冬に食したり、海辺に棲む人が山間地の食べ物を食べたりして、風土や習慣に狂いが生じ始めました。 もともと、慎ましく、正しい食物を食すればよかったものを、地域を越え、国境を越えて、その国では本来必要でなかった食べ物を食べ始めたのが、争い事の始まりになり、金持の一民族が何もかも独占してしまうという現実の中に、混沌とした世情・世界が出現したのです。 今日の混沌とした社会情勢は、こうした民族の風習や風土を越えた、濁りある食べ物を人間が口にし、血液を汚し、霊的神性を低くして、災いの種を蒔き散らしているからです。そして日本人の飽食や美食主義は、当然責められるべきです。 もともと人間にとっての必要な栄養バランスは、穀物や野菜や海藻のみで十分に摂取できるようになっており、これ以外のものを食する必要は全く無いのです。 人間が健康体を維持し、栄養補給をしていく上で、その栄養素は総て穀類や野菜類や海藻類の中に含まれており、蛋白質、澱粉、ビタミン群、ミネラル、鉄分、アミノ酸、脂肪などは植物性食品で賄うことが出来ます。 一方、食肉類においては蛋白質や脂肪は非常に多いものの、逆に植物性に含まれる栄養素は殆ど抜け落ちています。 植物性食品のみを食べていると、栄養不足になる、としたのは現代栄養学の妄想であり、科学的根拠がありません。 植物性食品の優れた面を食肉類に比較すると、喩えば大豆は食肉類よりも良質の蛋白質を多く含み、古来より「畑の肉」(この肉の意味は、人体のものと同じものを指す)と称されてきました。 また現代人は、カルシウムを摂取しようとして牛乳を多く飲みますが、牛乳内の含有カルシウム量は思ったほど多くなく、カルシウム量を多く含むのは遥かに海藻類の方が優れていますし、それに準ずるものに貝類や小魚類が上げられます。 そして海藻類の中では、ヒジキが牛乳の12倍以上もカルシウム含有量が多いことが栄養学では確認されています。 更に穀類の一つである玄米を上げれば、玄米の中には良質の澱粉質を多く含有し、更にはビタミン群が含まれ、それに準ずるものとして、ミネラル、鉄分、アミノ酸、脂肪も含まれています。このように植物性のみの摂取で総ての栄養素は賄えるのです。 しかしこうした現実の中にありながらも、現代栄養学は植物性食品の中にビタミンB12のみは植物性食品の中には含まれていないことを厳しく指摘し、これを以て「栄養不足になる」と豪語しています。その理由は、ビタミンB12という栄養素は卵やレバーなどの動物性食品のみが含有している栄養素だからです。 ところが、こうしたビタミンB12は、発酵食品である味噌や納豆の中にも、そして海藻類の中にも含まれていて、敢えて卵やレバーなどの動物性食品を摂る必要はないのです。 以上述べたことを整理すると、植物性食品は栄養学的見地から見ても、動物性食品に比べて格段に優れていることは一目瞭然であり、その上に言霊の、濁りのない、清らかな、正しい発声が可能であるということが上げられます。

●宇宙に遍満する七十五音の言霊
『ヨハネの福音書』第一章には「初めに言葉ありき」と言うことが上げられ、 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによって出来ていた。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は、人の光であった」と記されています。 これはまさに真理を述べたものと言えましょう。 また宇宙に遍満(へんまん/あまねくみちふさがること)する言霊として「アイウエオ五十音」に濁音、半濁音を加えた七十五音の言霊があります。この音節は日本語そのものです。 この言霊を完全に発声できるのが日本語を遣う日本民族です。五十声音から重複音を除いて「ン」を加えた音声が四十八音で、これを「四八音」(ヨハネ)と言います。 この「四八音」の一音一音が「神の名」となっていて、これを「型神名」(カタカムナ)と言い、「カタカナ」を現わします。 こうして考えると、言霊と食物は密接な関係があることが分かります。 穀物菜食主義を徹底すると言霊は、清く澄み渡り、濁りや歪のない、正しい発声が可能となります。この清音によって三千世界の神々との交流が可能になります。それは霊的波調が植物性の食べ物によって「密」に保たれ、清く澄み渡っているためです。 しかし、グルメを気取り、美食に溺れ、肉食を常習する人達は、血液が濁り、言霊も濁り、ために霊的波調が粗くなり、霊的神性が下がって彼等の交信する次元は低いものになり、交流する霊は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類のなり、不倫、怪我、事故、争い事などの不幸現象に見舞われます。

●大東流霊的食養道を全うして食改革
食が乱れ、食に慎みがなくなると、世の中は自ずと乱れます。 人類の歴史は、欲望の歴史ですが、その側面に飢餓の歴史があり、食える者と食えざる者が居たことを忘れてはなりません。 政権争いや、戦争による領土の争奪は、一方において、食える者と食えざる者の戦いでした。こうした飢えからの解放に向けて、人類は奔走したという歴史を持っています。豊かな、農作物が実る、緑の大地を求めて、人類は争奪戦を繰り返したと言っても過言ではありません。 主導権争いに先駆けて、君主は自国民を食わせてこそ、王たる資格を得たのです。 「衣食住そなわって礼節を知る」とは、この事を如実に現わしています。 しかしこの「衣食住」のうち、神から本当に授けられたものは、衣食住のうち、「食」だけであり、衣類も土地も家も、神からの預かりものであるということを忘れてはなりません。 いつの頃からか、人々は衣類も土地も家も私有財産の一部と思い込み、食だけが神から授かったものであるということを忘れてしまいました。 この事は、親子孫三代に亙って同じ土地、同じ家を維持している人が極めて少ないと言う理由からも窺えます。 かつて祖父の代は大地主であった。ところが子の代になって、子は放蕩息子に成り下がり、孫の代に至っては、売に出され、一家が離散したと言う話は全国津々浦々五万とあります。一時期住み着いた先祖からの土地も家も、永遠なものでないということが分かります。 また、衣類にしても、子供の時に着ていたものは、年齢と共に着られなくなり、衣類すら、自分自身には永遠のものでないことが分かります。 したがって「食」だけが人間に与えられている、「今の食べ物」であるということが分かります。少なくとも主食においては、同じものが与えられます。 そして「食の原点」を振り返った時、食は節食し、捧げてこそ、開運に至り、病気が治るという事が分かります。それは人間界が、神の庭の上に展開されているからです。 太古の日本人は山を見て神を感じ、川を見て神を感じ、海を見て神を感じました。そして風も神、雨も神、天地悉々(ことごと)くが神であり、草木も神でありました。 だからこそ日本民族は神を祀(まつ)る民族で、五穀豊穰(ごくほうじょう)の儀式は神を祀った、神への感謝と供えの儀式でした。大地から採れた農作物をまず、神のお供えし、それを頂いたのが人間に与えられた食べ物でした。 「腹八分」とは、こうした神への供物が「二分」で、残りの「八分」を臣民が頂くという事だったのです。臣民腹八分とは、実は二分を神の感謝に捧げるという事だったのです。そしてこれは同時に、「節食」を現わしたものでもありました。 また太古の日本人は、今日の現代日本人よりも、遥かに優れた自然観を持ち、その魂は正しく、清らかに、濁りなく、澄み渡っていたものと推測できます。 特に縄文期の日本人は、生まれながらにして自然の至る所に神の居ることを感受でき、人間本来の「霊的能力」を十二分に発揮していたと考えられます。自然の一部始終を捕えて、神を見、そこに畏敬の念を抱き続けたのでした。 彼等は神と共に在(あ)り、神と擦れ違う今日とは大きな隔たりがありました。 私達日本人は、もう一度こうした太古の日本人の精神に立ち帰る必要があります。穀物菜食によって、食改革を推進する意義がここにあります。

●穀物菜食実践の心得
穀物菜食を実践すると、どのような利点があるか挙げて見ましょう。
1.血液が清浄に保たれ、浄血されて、抗癌体質を造る事が出来る。
2.血液が浄化されるから、霊的波調が密になり、神気を受ける確率が高くなる。
3.全般的に病気にかかりにくくなる。仮にかかっても恢復が早い。
4.怪我、事故、不倫、家庭不和、裁判沙汰、警察沙汰などの争い事がなくなり、不幸現象が小さくなる。
また、こうしたものに遭遇しても、最小限に被害で止める事が出来る。
5.大きな災難が小さくなるのであるから、災いに対する防禦・護身に無駄なエネルギーを遣わなくてよくなる。
6.腸内から酸毒性の腐敗物質を駆逐する事が出来、躰が軽くなって、疲れにくくなる。 また、身軽になるため、腰痛、肩凝り、肘痛、膝痛などの体重が圧迫する痛病から解放される。
7.判断力、決断力、直感力が高まり、根気と忍耐の精神力が養える。 8.運を開く事が出来る。穀物菜食主義は後天的に末広がりの運勢を持つ。
9.精神力と共に、度胸が出来、心が豊かになって、肚の坐った人間性ができ上がる。
10.霊的神性が高まり、霊格が一段と増す。
以上のように穀物菜食は科学的にも有効であり、他にも細々と挙げれば、切りがありませんが、歴史的に見ても、神霊学的に見ても、人類にとっては非常にプラスになる面が挙げられているので、この真理は疑いようもありません。 こうした真理を挙げながらも、中には、それでもやはり牛肉か美味しい、ローストビーフはカロリー豊富で美味、寿司のトロは格別、仔牛のソテーや、中国風の青葉焼牛柳(チンチョイシャオニュラオ)、その他の肉と野菜などをバターや油で炒めたり焼いたりする料理は止められないとして、穀物菜食をしても長続き出来ないのではと、はじめから諦めてしまう人がいるかもしれませんが、こうした人には敢えて穀物菜食を御勧めする気持ちは毛頭ありません。 しかし、せめて四ツ足の肉を断ち、玄米正食に切り替えるくらいの気持ちは持ってもらいたいものです。

●正しい食事法
さて、私達は食事の前に合掌して「いただきます」という言葉を発します。 この「いただきます」は、食物から「命を頂いている」から「いただきます」と言うのであって、人間に代わって、その命を投げ出した食物に対しての感謝の意味を現わした言葉であることを忘れてはなりません。 だから当然、食事をするには「正しい食べ方」と言うのがあって、少なくとも、次に挙げる三点には注意を払いたいものです。
1.自分の棲(す)んでいる土地で採れた穀物野菜類並びに海藻類を食べる。これは身土不二の思想。 したがって、四ツ足を間接的に食べることは、人間には許されていない。また、三白癌の元凶である食品も口にしない。添加物食品やインスタント食品も口にしない。
2.よく噛んで食べる。一口50回程度の咀嚼で、咀嚼法を実践する。咀嚼法には「一二三(ひふむ)の食べ方」という食事作法がある。 よく噛むということは、コメカミにある海綿静脈洞(かいめんじょうみゃくどう)を刺激し、脳に血液を送り込む作用を促す。そして「噛む」という作業は肥満防止にもなる。 咀嚼回数を標準体重の人と、肥満の人とで比較すると、一回口に含むごとに標準体重の人は男性で15〜22回、女性で16〜25回。肥満の人では男女とも3〜7回と少なく、咀嚼回数の減少が肥満につながっている。
3.早食い(くん呑み/本来哺乳動物は「くん呑み」出来ない口腔構造になっている。ところがやわらかい食べ物が急増したため、流動食的に「くん呑み」する早食いの悪習が出来た。果たして人間以外の哺乳動物に咀嚼の際、「くん呑み」する動物がいるだろうか)に趨らず、ゆったりとした気持ちで食べることが大事であり、食物から命を頂いた感謝の気持ちを忘れない。 また、食事の際に、テレビを見ながらなどという、誤った一家団欒は禁物である。咀嚼回数が減り、食べることより、見ることの方に注意が向かうからである。
4.腹八分を心がける。
一日三食以上の過食は禁物。排便反射を高めるために、朝食は飲物にして、一日二食が理想。 昨今は飽食の時代です。世の中は不景気であろうと、企業倒産が起ころうと、日本国民の多くは、一度味わった飽食から逃れることは出来ないようです。巷には、至る所に様々な飲食店やハンバーガーショップが軒を連ね、美食や美食擬きを庶民に提供しています。 そして食べ過ぎで死ぬ人はいても、食べられないで死んだ人は居たためしはありません。 誰もが食べ過ぎで病気になり、それのもたらす難病・奇病で苦しんでいます。これは日本だけの不思議な現象と言えます。 したがって私達は、口から入る物、そして出て行く物に注意を払わなければなりません。これを怠ると、不幸現象に見舞われます。また、これによって、私達は「食」が如何に大事であるか教えられます。 戦争、交通事故、不倫、その他のトラブルや裁判沙汰、災難、難病・奇病と言ったものは、食と密接な関係があり、これが乱れ、慎みがなくなると、こうした不幸現象が現われてきます。 そして人間が食する理想的な食餌法は、一日二回の昼食と夕食のみ。朝食は食べずに飲食物を用いるのが、同化作用と異化作用から行っても理想です。 また霊的神性を高めるためにも、粗食・少食の腹八分で止めることが大事であり、残りの二分は神への捧げに用い、何よりも動物性を口にせず、舌先三寸で、その美食・美味の、味覚のウソに騙されないことが肝腎です。騙されれば、四ツ足を食べ続ける結果を招き、波調を粗くして霊的神性を曇らせ、霊格を下げてしまします。 霊格が下がれば、当然、見通しが悪くなり、勘が鈍り、様々な不幸現象を招き寄せます。 不幸、不運と思っている多く人は、こうした「禁を犯している」からであり、四ツ足を食べながらも、幸福になりたい、強運を招きたいと思っても、それは空しい負け犬の遠吠えです。 強運、開運の秘訣は、実は食事法と密接な関係があったのです。

●生命体と強靱な体躯
さて、西郷派大東流合気武術では「頑強な躰」を指す場合、単に肉体だけを指すのではなく、自分の持つ霊体及び肉体を指し、この両者を強く結び付けているのが、各々の心情(気)であると定義しています。 人間の所有する人体は、単に肉体だけの、肉の塊の意味ではなく、これを総じて「生命体」と言います。 生命体とは、生体と命体が重なり合ったもので、生体は肉体を指し、命体は霊体を指します。両者は普段、重なり合っていますので、これを肉眼で確認する事は出来ず、その意思の殆どは肉体の意思(心)によって動かされています。 そして「肉体」対「霊体」の分離比は、肉体の意思が全体の九割を占め、霊体は僅かに一割に過ぎません。つまり全体を100%として、90%以上が肉体、10%以下が霊体ということになります。 多くの常人はこうした分離比によって、物事を考え、思索し、それを行動に移しています。したがってその原動力の中心は「肉体」から発する意思であり、多くの武道をやる人や、スポーツマンは、肉体を酷使さえすれば強くなると信じて疑いません。 しかし肉体が頑強で、年齢的にものを言うのは、精々どんなに長い人でも、四十歳前後までであり、既に三十(みそじ)の壮年期の入口を超えた頃から、体力は衰え始め、記憶力や思考能力が低下し、鈍ってきます。これは肉体という九割の心に頼っているためです。 さて、肉体には肉体の心があり、これは霊的に見て「性悪説」から単を発した心です。そして霊体には霊体の心があり、これは「性善説」から発した心です。 性悪説の心は、「悪魔に誘惑」される心ですから、肉体がきつくなると、休みたい、楽をしたい、怠けたい、遊びたい、もっと享楽に興じたい等の、良からぬ心に支配されて、快楽遊戯にうつつを抜かし、低空飛行をして、意志の弱い人は墜落に向かって人生を棒に振ります。 また性善説の心は、良心の心ですから、自分を励ましたり、挫けそうになる自分に援助の手を差し伸べます。 西郷派大東流合気武術では道場稽古の他に、「山稽古」という特殊な稽古があります。 これは実戦を意識した野戦での兵法を会得する為に行われますが、単に敵と遭遇して白兵戦の死闘を繰り広げるだけではなく、長距離を強行軍したり、高山に登り、大自然と融合して、霊体を鍛えるためにこうした稽古が行われます。修験道の修行と非常によく似ています。 皆さんは「ランニング・ハイ」という現象をご存じでしょうか。 ランニング・ハイは、極度に疲れきり、もう倒れそうだ、呼吸が続かないと言う時に、不思議に現われてきます。このメカニズムを説明すると、簡単に申し述べておきますが、エンドルフィンの効用によって、脳から一種の麻薬物質が分泌され、これが肉体を陶酔状態に至らしめて、恍惚状態の、肉体力とは異なる別の回路が開かれます。 これによって、以降、疲れ知らずの躰になり、今迄とは違って動きがスムーズにこなせるようになります。 また、気分が高揚した状態になって、今迄見ていた景色が一変し、新しい世界が開けてきます。これは一種の「悟り」であり、これに至って「合気統覚法」を実践していける体躯を得ることができます。 この事についての詳細は、西郷派大東流宗家・曽川宗家著の『合気口伝書』各巻(綱武出版)並びに『大東流秘伝大鑑』(八幡書店)を参照下さい。 さて、頑強で丈夫な体躯とは、人間の生命体を司る生体と命体の分離比を、「五対五」の関係に持っていくことを指します。 この体躯は、少量の食べ物だけで非常に元気であり、長時間働けるという省エネ体質を作ることを目的にします。つまり生活スタイルを粗衣を身にまとうことに定め、粗食・少食を旨とする食餌法(しょくじほう)を実践することを指します。 現代は、不況下であっても、日本国民は比較的裕福であり、未だに飽食の時代です。 テレビのコマーシャルは、その60%が食品関係企業のCMで占められています。また番組も、クイズ番組と同様の視聴率で、どこのチャンネルをプッシュしても、グルメ番組や料理番組が放映されています。 そして多くは「現代栄養学」に基づいたレシピが紹介され、肉と野菜を半々に摂取する厚生労働省の指示に添う、カロリー計算上の料理がもてはやされています。 しかしこうした料理ばかりを食べていると、やがて三大成人病(動脈硬化・心臓肥大・高血圧・高脂血症・悪性腫瘍・糖尿病・肺気腫や骨の退行性変化など、壮年期以後好発する病気の総称で、生活習慣病を指す。昨今は動脈硬化、高血圧、糖尿病を三大成人病という)といわれる病気の病因になります。 糖尿病は食べ過ぎから起こるもので、高血圧はイオン交換樹脂法で作られた塩化ナトリウムの摂り過ぎから起ります。これが厳密な意味で、自然塩の摂り過ぎではなく、塩化ナトリウムの摂り過ぎなのです。 特に注意したいのは、一般に市販されている食卓塩というものは、その大方の99.99%が塩化ナトリウム(化学式Nacl/水によく溶ける無色の立方晶系結晶。岩塩として天然に産し、また、海水中に約2.8%含まれる)が食塩の主成分であり、完全な人工精製塩で、ミネラルは1%も含まれていません。 高血圧の人は、塩化ナトリウムが多く含まれた味噌や醤油や食卓塩の摂り過ぎで、一般には「塩分の摂り過ぎ」と判定を受けています。しかしこの塩分の摂り過ぎは、精製塩の摂り過ぎなのです。 もっと正しい「塩の知識」、つまり「自然塩」の大切さを知り、自然塩のみを摂取したいものです。そして海水には、高血圧や胃癌の元凶とされる塩化ナトリウムは、僅かに約2.8%しか含まれていないのです。つまり海水から作った自然塩は、ミネラルの宝庫といえましょう。 ちなみに「疲れやすい」と現代人は口にします。 しかし、この「疲れやすい」は、実は塩分不足から起こります。 一般に疲れやすさに対処する方法として「スタミナ料理」と称する、食肉を大量に摂取して、これを補おうとしますが、これは大きな誤りです。 人体にスタミナを補う条件としては、まず、血液がサラサラ(血液が生理的に中性状態)でなければなりません。動脈硬化などで血管にコレステロールが溜まる食肉の摂取では、この条件を満たしません。いつの間にか、私達は現代栄養学のウソを信じ込まされ、肉はスタミナの元と安易に信じてしまったのでした。 次に日本で一番致死率の高い病気は、相変わらず「ガン」です。このガンも食生活の誤りから来るものです。 日本人は先の大戦の敗戦とともに、その生活様式や文化までを、欧米に求めました。その求めた最たるものに欧米式の食生活がありました。 これまで塩化ナトリウムの摂り過ぎで、だんとつであった「胃癌」は、ここにきて「大腸癌」に抜き去られようとしています。 ご存じのように大腸癌は、日本人が肉食(牛肉、馬肉、豚肉、羊肉、鶏肉、鮪のトロ、及びその他の大型高級魚、卵、蛇肉、蛙肉、蝸牛)を開始し、それに併せて、乳製品(牛乳、チーズ、ヨーグルトなど。日本製は高熱処理をしているために乳酸菌は死滅)や、その他の食肉・魚肉加工食品(ハム、ソーセージ、薫製にした食肉や魚肉、蒲鉾、竹輪、魚の天麩羅など)を摂取し、それが豊富に食べられることにより、増え始めました。 大腸癌は大腸に発生する癌であり、多く円柱上皮性腺癌で中高年に好発します。 脂肪に富む洋式食事が普及して、以後増加し始めた病気です。この癌の特徴は、進行が早く、しばしば肝転移を起します。 またその他の腸に発生する癌腫としては、主に結腸や直腸に発生します。大部分は腺癌で、直腸癌と大腸癌に区別されます。 では何故こうした癌に侵されるのでしょうか。 理由は食肉と、それに付随した動物性脂肪の塊の乳製品の大量摂取です。 こうした食品は、腸内で停滞し、腐敗菌を発生させます。この腐敗菌が排泄されずに長期間滞った場合、正常細胞はガン細胞へと移行します。つまり血液汚染による病気なのです。 私達はこうした愚を是非避けたいものです。

●人体は生命体から構成されている
人体は命体と生体から構成され、この両者を結び付けているのが「気」という心であり、心情のエネルギー体です。これは車に乗った人間に喩えるならば、車(肉体部)という座席部に人間(霊体部)が乗り、車と人間が離れないように結び付けたものが、シートベルトに例えた心の存在です。 しかし心は肉体部に属するものと、霊体部に属するものがあり、時と場合によって、その心法の遣い方の訓練が出来ていないと、様々に片寄ります。 さて、生体はその本質として「形」を現わします。また霊体はその本質として「霊」を現わします。形は物資体を現わし、霊は霊魂を現わします。その両者を固く繋ぎ留めているのが、「気」というエネルギー体であり、それぞれの「意味」は物資体が天意の地上的表現、霊魂は地上に降ろされる天意、そして両者を繋ぐ気は、「天の気」と「地の気」を結び付けます。 地上的表現の本拠は下丹田である「気海」に存在し、霊魂は上丹田である「泥丸」に存在します。そしてそれらを結ぶ連結部分は中丹田といわれる「小腹」(または命門)に存在します。 そしてその波調も、下丹田ではその気の本質が「粗く、パワフル」であり、中丹田では「やわらかく、やさしく」、上丹田では「細かく、密で、気高い」という波調を生じます。

●人が生まれると言うこと
人間は宇宙の闇の彼方からやって来ます。胎児の極限は渾沌(こんとん)たる宇宙空間の闇に存在する一元素に過ぎません。 この一元素を量子力学の理論体系を以て言わしめれば、分子・原子・原子核・素粒子などの微視的物理系を支配するプランク恒数(定数の意味で基礎定数の一つで、宇宙におけるエネルギーの最小単位数)とでも言えるものでありましょうか。 輪廻転生の循環律(じゅんかんりつ)を以て表現するならば、胎(胚胎)の前は絶(ぜつ)ですが、無での絶ではなく、胚胎へと移行する胎であり、更に養へと移り、生へとなってこの世に姿を表わします。 人間は夫婦和合によって、精虫が母体の輪卵管で卵子と出合い、ここで一体となります。 この時、染色体遺伝子は外界からのあらゆるエネルギー作用を受けて、その組み合わせが決定され、受精という形で一個の細胞が誕生します。 この誕生した新しい細胞は固有の波動を生じ、この固有の波動に最も近い波動が霊魂(霊体構造を造る命体)と共鳴し合い、霊的波調を同じくします。 これ以降、霊魂の波動は霊的波調を揃えつつ、これに合うような肉体が造られていきます。これを霊魂の「鋳型構造」と言います。 こうして肉体に霊魂が宿ることで、人体としての形が整うのです。 この際、霊魂は鋳型のような役割をし、この鋳型に合わせて、その霊的波調に合うような細胞形成され、母体から取り込まれた栄養素は、体細胞として各々の臓器を形成していきます。この段階が霊魂の鋳型構造で、肉体が造られるまでの過程です。 さて、命体(霊魂)が何時宿るかについては様々な諸説があります。 大東流霊的食養道では「榊式胎児体重概算法」に従い、胎児が子宮内における成長度合の過程の中で推理してみました。 榊式胎児体重概算法によると、卵子の大きさは直径約0.2ミリメートルと言われ、悪阻(つわり)は妊娠六週間目ころから現われ、妊娠四ヵ月末まで続くと言われています。 私達、大東流霊的食養道研究グループは、この悪阻期間に眼を付け、「悪阻」現象とは何か、ということを推理してみることにしました。 それは命体の重さを、約70グラムから100グラム未満と推定して換算した計算によります。 この換算法は、人間が死んだ直後、全体重の1000分の1が失われるとする結果から割り出したものです。 喩えば体重60キロの人であれば、その千分の一は60グラムであり、90キロの人であれば90グラムであるからです。 これは人間が絶命する際に、床ぐるみの台秤に載せ、刻々と変化する様子を計測した実験結果から得られたデータを基準にしました。 この結果によると、死の刹那に重量は、次第に軽くなるという事実によるものです。実験結果から分析すると、平均して約60グラムから約90グラムが減ると言う目方の減少から導き出しました。 そうすると心臓の鼓動が停止し、数分後から約三十分後に、全体重の1000分の1が失われるものであると確認できたからです。この失われた1000分の1の重さが、命体の重さではないかと推測されるものであるからです。 さて、卵子の大きさが00.2ミリメートルとするならば、その重さは0.003グラム相当になるので、受精後直ちに命体と一体化するとは考えられません。 繰り返しますが、命体の重さは、凡そ60グラムから90グラムです。 したがって90グラムを超える重さになるのは、榊式胎児体重概算法では妊娠四ヵ月部分であり、この間体重概算法(グラム)は、妊娠一ヵ月で2グラム、二ヵ月で16グラム、三ヵ月で54グラム、四ヵ月目でやっと128となり、90グラム以上となります。 また悪阻とは、命体の波動が卵子に何らかの増殖作用を及ぼし、その現われが悪阻ではないかと推理しました。卵子が命体の鋳型の波動に合うように振動を繰り返し、この時点において命体との合体が行われる時期ではないか、と推理する次第です。 悪阻は妊娠六週間目(四十二日)頃から始まり、約四ヵ月末で治まることからして、生体(肉体)の胎児の重さは、命体の重さを少し上回る程度になります。これが命体と生体の一致時期ではあるまいか、と推測する次第です。 また悪阻が軽減されたり、薄らいでいくという現象は、一致したということを指すのではあるまいか、とも推理しました。 逆に言うと受精時、命体の波動が生体の波動より強いので、完全に波調は一致するまで、その波動は乱れが生じます。この乱れこそが悪阻の現象と考えられるのではと。 この期間が妊娠六週間目頃から四ヵ月末迄で、以降悪阻期間は軽減し、薄らいでいく。そしてやがて軽快する、というプロセスが、妊娠、その後の悪阻、そして悪阻の軽減という形に現われているようです。 さて、命体の波動における周波数は、およそ15〜50Hz(ヘルツ)であると推測されています。 これは卵子が径0.2ミリメートルだとすると、その周波数は42kHz見当とされます。 したがって、命体と卵子の周波数は、この時点の状態においては非常に隔たっているので、この状態で二つの周波数の波動が一致する付近を推定すると、命体が18Hz付近と35Hz付近で共振・安定する生命波が観測されました。この段階では卵子は非常に小さく、胎児の目方は命体の目方十分の一を超すことから安定期に入り、一体化するのが六週間頃であると推測されます。 では悪阻現象とは何でしょうか。 それは命体と胎児が生体として、一致するまでの生命波帯と、非生命波帯の不一致の乱れと考えられます。 この乱れが山場に達するのが、母体の生命波を乱す悪阻であり、四ヵ月末までに胎児は100グラム以上になった時点で命体より目方が重くなり、これによって完全な一致が行われたのではないかと推測されます。 したがってこの安定期に入るまでの、胎児の波動と命体の波動の乱れと不一致が悪阻です。 これは一種の「船酔い」と考えることができます。双方の波動の違いから起こる船酔い現象です。 船酔い現象は振動によって起こります。生体の生命波が乱れることによって起こります。 したがって胎児は成長するに伴って、生体と命体の波動の周波数の違いから船酔い現象を起こし、母体の生命波が乱されます。 しかしやがて、胎児の生体と命体が一致し、振動がなくなると母体の生命波も正常に戻り、船酔い現象は消えます。これは胎児の生体と命体が一致したからだと推定することができます。 以降、母親の摂取した食べ物からの栄養素は、消化器官を通して腸で血球が造られ、その血球が胎児を養うということになります。 そして血球は全身を巡り、組織細胞を形成し、体細胞に変化します。(千島学説『腸造血説』による。現代医学では、血液を造る処は骨髄と考えられ『骨髄造血説』が主流であるが、『腸管造血説』を唱えた千島喜久男医学博士の造血説を支持)

●人間とは何か、自分とは何か
さて、子は父母の結び付きによって個を有します。そしてその結び付きにより、「生まれ」(生年月日)という時刻を歴史に刻みます。 精虫と卵子の合体により、父母の遺伝的要素受け継ぐのですが、その染色体が組み合わされる時は、地球と月と太陽並びに惑星や星雲などの万有引力の影響を受けるので、同日同時間に生まれた人は、何処か似通った性質を持って生まれてくるのでは、という考え方が一般的です。 しかしその人の運命と、運・不運は別問題であり、九星気学や西洋占星術は、時として全く意味不明な回答を出すのは、これを混同し、先天的(親の遺伝)なものと、後天的(環境や境遇)なものを一緒くたにして考えているからだ、とこの誤りを指摘することが出来ます。 特に、生年月日を占う占術の類は、同年同月日に生まれた人の運勢の違いを説明することができません。だから次の手法として、神秘的なものを持ち出してきて、霊能・霊感と称するもので逃げ道を考え出しました。 占師の事務所などに行くと、よく神棚などが祭られているのは、占術で不足する部分を霊能・霊感で言葉を濁すという意味合いからであり、一種の逃げ道を象徴しているように思えます。 確実に当たるものであれば、同年同月日に生まれた双生児など、全く同じ運勢でなければなりません。 また惑星の位置や運行によって、人や国家の吉凶などの運命を占う占星術や、年・月・日・時間の四つの要素を干支と五行に当てはめて、その人の運命を占う四柱推命術は、その人の生まれた日によって占い、まことに大雑把であります。 また占の類に問題があるのが時間差です。 喩えば、日本と日本以外の外国で生まれた場合、同年同月日で同時間であっても、記録される生年月日は異なって来ます。一日違えば当然運勢も異なるはずです。 もし、年・月・日・時間(秒まで含む)で占うとすれば、地球時間のそれでなければならなりません。 また同年同月日で占う類は、各々の運勢が異なるのは、姓名が違うからだと答える占師もいます。 人間が生まれるというのは、各々に異なった遺伝を父母や先祖から受け継いで、現世を修練の場として生まれてくるのです。一旦生まれた以上、親から受け継いだ肉体(生体)と、命体は先天的な素材であるので、作り替えることはできませんが、後天的には食改革で如何様にも作り替えることができ、ここに人間が生まれてくる意味を含んでいます。食養道の基本である食事法もその一つです。 人生は二度繰り返さない、と言います。 したがって悔いのないような人生を歩まねばなりません。こうした意味で、生まれてくることの意味、そして人生の意味を考えなければならない必要性が出てきます。 次元の低い占いに頼り、他力本願的な人任せでは、人生は開けてきません。自分のことは自分でする、というのが宇宙の掟であり、これは何人も無視できない事柄です。 それを考える上で、一番の課題となるのは「自分とは何者か?」ということです。人は自分を探すためにこの世に生を受けたのだ、と言うことが言えましょう。これは一生かかって取り組まなければならない課題です。 その課題に示唆を与えるのが、大東流霊的食養道なのです。

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