戦争の歴史は、支配者の欲望の歴史であり、古代から現代に至るまで、支配者の欲望が、歴史を次々に塗り替えてきました。滅んでは、また生まれる、その中に栄枯盛衰の理がありました。 これを考えると、日本が島国であった事は、近隣の侵略者を、簡単に寄せつけなかったという事に一役買っていたのです。 しかしその反面、島国根性を根付かせ、大陸の戦略家等に比べて、一回り小さな戦略家しか生まれなかった事も、また事実でした。 日本武術が如何に優れていたとしても、一流一派を振りかざして、ヨーロッパや中国の大戦略家には太刀打ち出来ず、これらも所詮は「井の中の蛙」でした。日本人の概ねが「お人好し」であるという事も、これに由来するようです。だがこの「井の中の蛙」は、欧米や中国のそれに比べて残忍ではなく、豊かな慈しみの心も培ってきました。恐らく、これらの慈しみは、森林や海等の美しい自然によって培われたものなのでしょう。 さて、地球儀を見て解るように、日本民族は存続する上で、最も恵まれた位置にあり、太古から現代に至るまで、自然の要塞に守られてきました。そして日本列島の自然風土は、今日まで日本民族を守り育んだわけです。 逆に、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸を見て分かるように、外敵が齎す混血は、非常なものがありました。日本列島の自然風土は、それからも日本民族を守ったのです。 歴史的には、五世紀頃に大和朝廷が日本を統一しますが、その統一以降、日本民族はその血を外国人と濁すような大きな危機は、太平洋戦争後の一時期を除いて一度もありませんでした。(古くは弥生人が、原日本人である縄文人を滅ぼして、混血をつくっているが……) 前時代に比べれば、山林や海の乱開発や汚染は確かに進んでいますが、それでも日本国土は南北に長く、良き緑に覆われています。砂漠化しにくい位置にも属しているのが日本列島の特徴です。 この砂漠化されにくい理由は、ヒマラヤ山脈が日本列島の乾燥を防いでいるとも謂われています。その為、美しい景観が、日本の津々浦々の、何処に行っても見られます。 一方、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸は、地球儀を見て解る事ですが、その大半が砂漠です。 だから日本人であるという事は、それだけで恵まれた環境下あるという事になります。ところが今日の日本を振り返った時、至る所に欧米の横文字が氾濫し、アメリカナイズする事を好む風潮があります。 そして日本の古来からの風習や文化は、これらに押されて陰を潜めてしまいました。 しかし日本人が日本の文化を否定し、日本の自然の恩恵を忘れてしまうと、日本民族は崩壊に向かわなければならなくなります。その崩壊の兆候を如実に現わしているものが、今日の日本人の食文化に現われています。 「身土不二」から発した土産信仰は、既に「海幸彦(火照命/ほでりのみこと)・山幸彦(火遠理命/ほおりのみこと)」の神話伝説でお馴染みです。 海から取れる海の幸、山から採れる山の幸は、非常に種類が多く、魚にしても、山の幸にしても四季折々に変化を齎し、いつも食卓に旬の味を楽しませてくれたものでした。これが日本人の血となり骨となって、太古より連綿と続いた、食文化を終戦直後まで支えてきたのです。 ところが今日の日本人の食生活はどうでしょうか。 日本人の生活スタイルは欧米化されてしまい、食卓の上には、星条旗入の食品が処狭しと並んではありませんか。 欧米のものを有難がる今日の風潮は、まだ日本人が一人歩き出来ない、自主独立への意識が欠けていて、そうした社会構造が、まだまだ幼児社会である事を彷彿とさせます。 さて、十六世紀の戦国時代に至って、日本の食文化は頂点に達します。 この時代の武士階級の食べ物は、主に近海で取れた背中の青い小魚、海草類(ワカメ・昆布・ヒジキ・岩海苔など)、貝類、それに合わせた玄米を中心とする穀物菜食の食餌法が常でした。 また、蛋白源の中心となった背中の青い魚は、マグロなどの赤身魚や、タイやヒラメなどの白身の高級魚に比べて、栄養価が数十倍以上も高く、カルシウムやマグネシウムを豊富に含んでいる代物でした。これらの小魚を、頭から尻尾まで骨ごと食べるという食生活があったのです。 その他にも天然塩をはじめとして、玄米や大豆、小豆やその他の穀物、地の中に育つた蓮根(れんこん)や牛蒡(ごぼう) 、長芋(ちなみに『いも』の字は、元々日本に存在した芋である長芋や里芋に「芋」の字を使い、外国から齎されたジャガイモを馬鈴薯と呼ぶように、これらには「薯」の字が当てられた)や、里芋などの根野菜も、豊富なエネルギー源を含んでいました。その豊富さが、戦場で戦う武士のエネルギー源となったのでした。 天文十八年ポルトガル人のイエズス会・宣教師フロイスの著した『日本史』によれば、「武士達は、戦乱の最中白兵戦で斬り合い、刀傷を負っても比較的に早く回復した」と、踊るような筆使いで、その驚嘆ぶりを、本国当ての通信文に記しています。 これは当時の日本人の武士階級が半農の意味合いを持った武士であったことが解ります。領主や重臣以外は、戦の合間、漁をしたり、畑を耕すといった晴耕雨読の生活をおくっていた為と思われます。ある意味で、身分や姿形に、武士・農民・漁師などの差は殆どなかったと考えられます。 つまり「武士」という階級は、この時代、まだ「士・農・工・商」を形作る以前のもので、「士」と「農」は同義語であり、一種の職業であったと考えられます。つまり武士とは「職業」であり、身分ではなかったのです。 職業的差別があったのは「工」「商」であり、腕に職を持つ刀鍛冶、鉄砲職人、甲冑職人、研や鞘師の職人や大工などや、その他の職人、あるいは貿易をして商に聡い商人達でした。ここには現場での戦争技術者である「士」と「農」という関係があり、一方それを企画し演出する「工」と「商」の関係があったのです。 したがって体質的にも、「工」と「商」の貧弱な体質に比べ、「士」と「農」には強い自然治癒力が備わっていたと思われます。その自然治癒力の源となったのは、これらの蛋白源もさる事ながら、粗衣・粗食に耐え切れる精神構造でした。 「工」と「商」は発達を究める貨幣経済の中で豊かさを需め、その挙句に財に物をいわせて、食への贅沢(例えばコメを精米して、口当たりの良いものにする。動蛋白を摂る)を満喫していきます。 一方「士」と「農」は質素と倹約を旨に、雑穀を中心とした粗衣・粗食を実践していきます。この両者間の大きな隔たりが、「体質」そのものを変えてしまうのです。 また『日本史』には、十六世紀における戦国期の武家の食事と、体力の関係が克明に記されています。 刀傷を受けた武士が驚くべき速さで回復していった事や、坂や山を甲冑を着けた儘、猛スピードで駆け降りたり駆け登ったりしたこと等が、驚きの眼で記されているのです。 戦場に出れば、徒歩侍(かちざむらい)でも、甲冑(かっちゅう)を装着したその重さは、腰に巻いた食糧等を含めて、約三十キロ以上となります。 騎馬侍(きばさむらい)であれば、その装備は更に重くなり、総重量は四十キロは下らないと思われます。その重さの甲冑を装着しながら、長槍・薙刀(なぎなた)・長巻(ながまき)・大太刀を振るうのですから、大変な体力と持久力と忍耐力を持っていた事になります。 彼等武士階級は、精神的にも不屈であり、堅固な意志を持っていたはずです。更に、それにも増して、坂や山を駆け降りたり駆け登ったりするのですから、これは最早神業に近く、膝や腰は頑強であり、何よりも足首や膝のバネの力は相当なものであったと考えられます。 これらは武士階級のみに留まらず、僧侶や山伏(やまぶし)等にも及んでいたと思われます。単にこれらは、肉体的トレーニングでつくられたものではなかったはずです。 それを裏打ちするのは、日本の海の幸、山の幸の食べ物の恩恵によるところが多く、更に日頃から粗衣・粗食であった事が、これらの条件を可能にし、そこには頑強な、現代人には無い霊的体質があったと考えられます。
フロイスの評価した十六世紀の日本人の体躯
ポルトガルのイエズス会士・フロイス(Luis Frois/インドで司祭となり、また49年(天文18)以降の長崎で没。1532〜1597)は、布教史『日本史』(1549年(天文18)以降の日本の記録)を執筆したことで有名です。
フロイスは1563年(永禄6)来日し、長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃しました。 そしてこの間の滞日中、140余通の日本通信を本国に送り、それが『日本史』として纏められたものです。 この『日本史』によれば、特に武士階級の事を挙げ、彼等の体躯の強靱振りを非常に高く評価しています。それを要約すれば次のようになります。
1.武士階級の食生活は、当時のどの階級よりも質素で、多くは玄米穀物菜食主義で、下は雑兵(ぞうひょう)といわれる足軽から大名に至る迄、少食・粗食であった。また着ている物も、普段は木綿の粗衣であった。それなのに暑さや寒さに強かった。
2.「戦い」となると、強靱振りを示した。徒侍(かちざむらい)といわれる下級武士は、約40キロの防具・甲冑を着け、それを装着して、恐るべき早さで野山を駆け走り、あるいは駆け登った。
3.騎馬侍(きばざむらい)という一ランク上の階級も、馬術に長けているばかりでなく、体躯そのものが強靱であり、落馬してもそれで滅多に死ぬことはなかった。また、敵の徒侍に、一旦は馬から引き摺り落されても、再び立て直し、掠り傷もせず、丈夫な体躯をしていた。
4.刀で斬られても、あるいは槍で突かれても、傷が致命的な深手でない場合、その傷は直ぐに治り、それは不思議なくらいであった。おそらくその秘密は、彼等が普段口にしている食べ物にあると思われ、その食べ物の多くは、玄米菜食を中心とした食物に併せて、海で採れる魚貝類や、川で採れる小魚等で、こうしたものが強靱な体躯に貢献していたのであろう。そして彼等は、総じて少食・粗食であり、こうした事が胃腸を損なう原因から守っていたのであろう。
それに比べて商人や町家の多くは、裕福で、食生活も武士以上に贅沢で、病気がちの人が多かった。これは食べ過ぎの食生活が胃腸を損なっていたのであろう。(これはどこか現代の日本人と似ていないでしょうか。江戸期に入ると、白米の食べ過ぎから「江戸患い」(えどわずらい)という病気が、商人や町家の人に流行します。「江戸患い」とは、今日で言うビタミンB1の欠乏症から起る脚気です。また逆に武士階級は、白米を「泥腐る」といって、これを食べていたのでは、いざという時、役に立たぬ、したがって栄養価の高い「玄米」でなければとしたのです)
フロイスは、武士階級の日常のこうした事を、日本通信として本国に送り続けてい たのです。 そして日本では、十六世紀以降、武士の日常は玄米菜食主義に徹せられ、その頑強な体躯を土台にして健全な精神が培われました。 頑強で、丈夫な体躯づくりの秘訣は、実は肉食主義ではなく、玄米穀物菜食の中に「強靱」の秘訣が隠されていたのです。
ちなみに西郷派大東流合気武術ではこれを「大東流霊的食養道」として、現代に伝えています。

●日本人は古来から玄米穀物菜食主義だった
今日、肉食を否定すると、必ず現代栄養学者から指摘を受けるのが栄養のバランスです。現代栄養学者達は口を揃えて、「植物性食品ばかりを食べていると、栄養のバランスが崩れ、やがては人体に悪影響を及ぼす」と厳しく指摘します。 しかし、果たして植物性食品ばかりを食べると、人間の人体は崩壊するものなのでしょうか。 これは単刀直入に言って、栄養学の面から見ても、全く根拠がありません。(【註】栄養学と現代栄養学は根本的に違っており、現代栄養学は戦後、欧米から入り込んで日本の栄養学に取りついたもの) 穀物菜食を中心とした植物性食品だけを摂取すると、エネルギー不足になり、体力がなくなり虚弱体質になるという指摘は、医学的データから見ても、あるいは歴史的事実から見ても、全くの見当はずれです。 先に述べたように、十六世紀の武士階級の食生活を見れば一目瞭然であり、一部の町家の商人の贅沢な食生活を除けば、日本人は古来から穀物菜食を旨として生活を営んできたのです。 当時は、現代に比べて病気の数も少なく、今日に見る難病奇病は殆ど見られず、健康体のまま天寿を全うするという人が多かったことが歴史からも窺えます。 十六世紀の戦国時代、約40キロ以上の鎧甲冑を身に帯び、何日間も、何十日間も不眠不休の極限状態にあって、戦闘することを可能にしていました。そしてこの体躯の裏付けになったものは、今日の欧米式の食生活と異なり、今と比べれば驚く程、質素なものでした。 植物性食品ばかりを主体にしていると、体力が損なわれ、エネルギー不足になるというのは現代栄養学の作り上げた妄想に過ぎません。 かの徳川家康ですら彼が好んで食したのは、玄麦や玄米であり、町家の富豪が食していた白米とは一線を画するものでした。この事は、大坂夏の陣で家康本人が玄米穀物を食べていたということが、多くの当時の模様を伝える書物に記されています。 また、かの豊臣秀吉ですら、高野山では玄米粥を食べていた事が記され、加藤清正は玄米食を家訓に定めるくらいに玄米穀物菜食主義を徹底した人でした。 更に、徳川秀忠が池田光政をもてなしたときの料理は、蕪汁(かぶらじる)と干魚だけであったと、今日の食餌法の研究書にも記されています。(【註】参考書籍『食養について』『生命現象と環境』) この事から考えれば、一般の武士階級や庶民に至っては更に質素であり、今日に言われているような、エネルギー不足や体力が損なわれるという盲信は具現化されておらず、植物性食品だけで十分なエネルギーが賄われていたという歴史的事実が存在します。 奈良時代においても玄米二食が一般的であり、農民においてはこれに合わせて雑穀類(粟、稗、黍、団栗など)も食していたという記録があり、こうした食生活は平安時代や鎌倉時代に至っても変わることがありませんでした。 このように日本では、その食生活の伝統は玄米菜食主義が中心であり、五穀を主体としてそれに付随した野菜や小魚をベースとした食生活が営まれていたのです。こうした事は、日本の様々な神典類に記され、『秀真伝』(ほつまつたえ)には、「常食とすべきものは田畑の作物である」と明言され、「間違っても四ツ足の肉を食べてはならない」と注意を促しています。 更に『上つ記』(うえつふみ)や『竹内文書』や『カタカムナ文献』等にも、日本の超古代には太古より動物の肉食を忌み嫌い、穀類や菜食を中心とした食生活が営まれていたことが記録に残されています。 こうした日本の太古の食生活を記録した書物の中に『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき)があり、食養研究家の間では『旧事紀』(くじき)と称されているもので、この文献は聖徳太子によって、推古天皇三十年九月に編纂作業を完成した書物で、その内容は宇宙の玄理を説き明かし、それは人体における小宇宙の神秘にまで迫り、その基本を食物に置いていることです。 そしてこの『旧事紀』が編纂された九十年後に『古事記』が出版されています。更に八年後には『日本書紀』が著わされ、この『旧事記』が正しいものであるとされれば、日本最古の経典ということになります。 しかし『旧事記』の研究は、江戸時代の初期の儒学者である林羅山(はやしらざん/江戸初期の幕府の儒官で、名は忠・信勝。僧号、道春。京都の人。藤原惺窩(せいか)に朱子学を学び、家康以後4代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しようへいこう)の起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」など。1583〜1657)が、よく内容を研究しないまま、1679年に偽書と決め付け、その後、世に出ることはなく、現代に至っては研究されないままの状態になっています。 ところが一方において、この『旧事記』の原文を受け継いだ宮東伯安斎(みやとうはくあんさい)氏はこれを徹底的に研究され、その半生を賭けての註釈は全七十二巻にまとめ上げられ、そのうちの第五十三巻から第五十六巻までが『医綱本紀』として記され、「人間の食する食べ物」を「食節」として挙げられています。 この「食節」によると、「食の道は穀物が善(よ)く、肉食は善からず。穀は正食に能(よ)く、純食にも堪(よ)く、肉は従食(おかず/御数)にしても純食に堪(たえ)られず。其(そ)は、克(よ)く能(たえ)ると不能(たえられざる)こと、能(ききめ)と毒とに分かつなり」とあります。 また、『医綱本紀』の中では、聖徳太子は「古来の日本において、病気というものは、全くなかった」ということを述べていると強調しています。

●食体系の破壊が今日の日本人を骨抜きにしてしまった現実
日本人は玄米穀物菜食主義を基軸に、伝統的な食文化を全うしてきた民族です。 しかし江戸時代に入ると、オランダの西洋文化が流れ込み、豪商の間の食生活の中に西洋の食肉文化が徐々に浸透していくことになります。 そして明治維新以降は欧米一辺倒になり、肉食は好んで食べられるようになって、スキ焼きや牛鍋や焼き肉などが、広く紹介されるようになり、栄養学者達は食肉をすると健康によく、体力が増強されて、エネルギー源になり、体格も西洋人なみの体躯が作れると豪語しました。それが今日まで盲信的に信じられ、庶民の間にもこうした神話が安易に信じられるようになりました。 しかしこうした肉食万能主義は、戦後のことであり、主に都会に於て信じられた妄想であり、これが日本全国の津々浦々にまで浸透したのは、昨今よりほんの数十年前のことに過ぎません。 韓国においても、古来よりの焼き肉の本場の国のように宣伝されていますが、これも昨今のことで、こうした食肉思想に拍車が掛かったのは1980年代以降のことです。 日本の敗戦の原因は、工業生産力と体躯・体格の差に求められ、欧米型生活のスタイルこそが進歩的と、盲信的な思考が大半を占めると、これまでの日本の生活様式は古くさくて迷信に満ちているという、時代遅れを指摘した考えが一般的になり、欧米のものは何でも優れているという、間違った思考が上から下まで支配するようになりました。 この支配的な盲信が、今日の現代栄養学を作り上げたのです。 また現代栄養学に基づく理論として、「食事バランス」が表面化すると、医学者や有識者が先頭に立って、その特殊特権の権威を以て、一般庶民にアピールを行い、これが栄養学の基準として定着し始めたのが1950年代頃で、アメリカ公衆栄養学こそが栄養学理論の基本と定められました。 それは大別して四つの食品グループから構成されています。 その第一は牛乳を始めとする乳製品であり、第二が肉や卵で、付随する物としてマグロなどの高級魚が上げられ、第三に漂白小麦粉を中心にする白パン、そして第四が野菜(もともと日本になかった西洋野菜)や果物(主にアメリカの甘橘類)です。 この食事法の指針は終戦直後、マッカーサーの訪日とともに、進駐軍(占領軍)の政治的政策の一環として推進され、この背後には当然の如く、日本市場にアメリカの食物業界が参入しようとする思惑が働いていました。 こうして日本人は現代栄養学という政治的な意図を持った食糧政策に騙され、また、医学者や栄養学者の権威の威光によって、一般庶民層はこうした思考を鵜呑みにする現実が生まれました。かくして、日本人の胃袋は、見事にアメリカ食品企業の主導型食糧政策によって支配され、占領されて、今日、多くの家庭の食卓にはアメリカの星条旗が処狭しと並ぶ現実を作り出しました。 現代栄養学が、権威として体系づけた理論の主軸である、肉・卵・牛乳などの動物性蛋白質の奨励は、健康維持のためというのは真っ赤なウソであり、この背後にはアメリカの飼料穀物企業の周到な、利潤追求のための食料戦略があり、政治的には、つまり、家畜飼料の市場を一手に握り、「動物性蛋白質は人間にとって絶対に必要な食品」と煽り、経済的には市場を独占するという計画が背後に潜んでいました。
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