南北の与えた影響は、食文化の革命的な思想であり、「人は如何に生き、如何に死ぬべきか。そして運・不運は、「人体の体型に密接な関係がある」という結論に行き着くのです。 それを要約すれば次のようになります。
1.人は食事の仕方を間違うと運勢を悪くする。即ち、食べ過ぎれば陽に偏り、肥満体になる。また偏食すれば陰に偏り、痩せて薄弱となり栄養失調になる。その為には孰れにも偏らぬ穀物や野菜中心の「粗食・少食」が一番である。
2.食べ過ぎは肥満の元となり、貪欲な「いじましさ」とういう人間本来の「業」が出て、利己的になり、運勢を悪くする。この為、性格は威圧的で横柄で傲慢な態度をとる。このような性格が表面化した時は、転落する暗示を持つ。それは観相に表れるもので、「法令線」(ほうれい)が「口角」(こうかく)に向かって流れた時は、事業の失敗(倒産)や破産の暗示を持つ。金に困って「首が回らない」という人は、ストレスが溜まっていて大抵が肥満である。肥満は運勢を悪くする元凶である。
3.陰に偏った食事(偏食)をすると栄養失調になって、痩せた体型(病草子に出てくる病人のように頭髪は疎らになり手足は痩せ細って骸骨のみの、腹は膨れてデッ腹の体型になる)になり、利他的になり、他人に酷使される運命を持つ。性格は内省的で消極的な行動をとる。観相に現われるものは、頬の肉(人相学的には「妓堂」(きどう)と言われる部分)が削げ落ち、人望や信用、人気等が一挙に失われ、主導性が著しく欠けてくる。
4.陽に偏ったり、陰に偏ったりするのはよくない。だから人の体型は、陰陽いずれにも偏らない中肉中背の「中庸」(ちゅうよう)の躰付きが最も良い理想体型である。
5.一般に「腹八分目」というが、この思想は「二分」を神に捧げ、残りの「八分」を食べるという、食べ過ぎを戒めたものである。しかし「腹八分目」でも食べ過ぎである。 したがって、「腹六部目」を理想とする。十分に「仙人食」でも身体は動き、働けるのである。 中肉中背の身体付きは《身土不二の法則》に則って、「腹六分目の粗食」によって生まれるもので、粗食を徹底している人は、凶方位に行っても、その悪影響を受ける事がなく、運命学で言われている運・不運の影響が表れない。占いや運命学で影響を受ける人は、陰陽いずれかに偏った肥満か、痩せた体型の持ち主である。滋養は、食べ物だけではなく、大自然の静寂な大気からも取らなければならない。これを《食気同根》という。
6.《食気同根》を徹底している人は、運命の根本に根差しており、それは如何なる境遇に遭遇しても、決して揺らぐ事のない不動のものである。また災難を吉福に変え、弱運を吉運に、凶方を吉方に転換させる事が出来る。
7.呼吸法を実践している人は、その呼吸が丹田呼吸(逆腹式呼吸=息を吸い込んだ時に腹をへこませ、息を吐いた時に腹を膨らませる特殊な呼吸法)であり、自己に宇宙意識が確立されている。 したがって自他との境目がなく、自然に溶け込み、自然と一体になった心身であり、悪方向に近付くと自動的に警鐘が鳴り、そこに近付かないような機能が働く。または近付いても、殆どその影響を受ける事が少ない。災難の兆があっても、生きる因縁の《天命》で守られてい為、その影響をもろに受けず、跳ね返す事が出来る。

以上の七つの法則は、水野南北が掲げた「人の躰付き」と「観相の関係」であり、肥満体と痩せ形の体型の人は、運勢的に劣勢な宿命を背負わされているという発見をしたのです。 そして名古屋の宮宿では、熱田神宮の近くに住居を構え、観相家として一家をなし、晩年は皇室のひいきを受け、光格天皇の時代に、従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号を贈られたと言います。 また、「南北」という号も、「相法に於て日本中祖の号を賜う。天命を恐れ、家名は我れ一代かぎり、子孫にこの相法を伝えず、門人に免ず」としるしているように、身内の一子相伝ではなく、法統を重視して、その子孫には伝えなかったと言うところが、水野南北の業績を大きくしています。 初代が賢人でも、二代目が無能であれば、それは名前だけの伝承となってしまいます。南北が一子相伝で法統を身内以外に求めたのは、まさに正解だったと言えます。 無能な人間ほど親の七光りに胡座をかき、家柄にこだわり、中味のない家名に重点を置き、必ず「一子相伝」の型を取るものです。こうした型は日本の茶道や華道の稽古事や、武術・武道の宗家家元に多くあり、親の築いたものを、子が苦労せずに継承し、更に孫が受け継ぐという一子相伝の形を取るものが多くありますが、こうした流派は中味が空っぽの場合が多々あります。 アメリカの歴代大統領の中で、第十六代のリンカーン(Abraham Lincoln/共和党出身で、ケンタッキー州生れ)は、南北戦争下に奴隷解放を宣言をし、また「人民の人民による人民のための政治」という民主主義の理念を説いた事で有名であり、最も偉大な大統領の一人ですが、その子孫は政治家でもなければ、大富豪でもありません。単に一般大衆の、ごくありふれたアメリカ国民として日々を暮らしています。 ところが日本はどうでしょうか。 政治家の子は政治家であり、実業家の子は実業家である場合が少なくありません。こうして二世三世は、創立者のレールの上を歩くだけで益々軟弱化になり、やがて明確な判断と決断を誤ります。 こうした事を、南北は見抜いていたように思われます。 南北の相法は「血色気色流年法」という独特のもので、従来の宿命論的な観相法を打ち破り、いかなる運命の星の下にある人も、あるいは家柄に関係なく、神仏を崇敬し、修身努力すれば、宿命を転換できると説いた「南北の相法」は、当時としては実に画期的なものでした。 南北の観想法は「人の運命は食にあり」の大悟によって象徴されます。そして最も象徴的なものは、「吾(わ)れ衆人(多くの人)の為に食を節す」と言う、崇高な人生哲学であり、人の為に自分の食を「腹六部目」に減らし、残りを他人の為に与えるという行為は、まさに「奉仕」であり、武士道に通じるところがあります。 南北は、白米ならびに餅の類は一切食さず、副食は一汁一菜と食を慎しんだ緒果、晩年は屋敷一丁四方倉七棟に及ぶ産をなしたと言います。 南北の生年は宝暦七年(1757)と言われ、没年は天保五年(1834)十一月十一日でした。そして享年は七十六歳で天寿を全うしました。 著書に、「南北相法十巻」「相法和解二巻」「秘伝華一巻」「修身録四巻」「皆帰玄論」「神相全篇精理解」「燕山相法」「相法対易弁論」があります。 吾れ衆人の為に食を節す まず、私達は水野南北という人物の、人相に注目をしなければなりません。 「人の運命は食にあり」と大悟したのですから、南北自身の相貌はどうだったかという事です。 南北はその人相からして、ズバリ言えば、「貧相」の一言に尽きるでしょう。決して、よからぬ人相なのです。 その背丈・体型は、まず背が低く、姿勢が悪く、顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく窪み、金壺眼(かなつぼがん)です。この眼は東洋人には少なく、西洋人の多いタイプです。 印堂は狭く、眉は薄くこういうタイプの人は運が開けるのが遅く、折角の運気も取り逃がします。性格が疳癪(かんしゃく)持ちです。 「鼻は低く、顎骨は高く、歯は短かく小さい、また足も小さい」と自らが書いているように、人相としては、まさに貧相です。失礼な言い方をすれば「最悪」としか言いようがありません。 しかし、「人の運命は食にあり」の大悟によって、「吾れ衆人の為に食を節す」と、粗食・少食に切り替えたのは、実に懸命な選択でした。 南北自身の人相所見観てみますと、小さな口は愛情が欠ける事を顕わします。次に背が低いのも愛情に欠け、眼が金壺眼で、嶮(けわ)しいのは犯罪者タイプであり、眼がくぼめばひっこみ思案の暗示があります。また、印堂が狭いのは精神不安定であり、眉が薄いのは兄弟運がない事を顕わします。そして然も短命です。 鼻が低いのは貧乏で短命であり、歯が小さいのも貧乏で短命を顕わします。次に足が小さいのは賎しく、健康状態は常に不健康に悩まされるタイプです。 しかしこうした死の淵から生還した事は、先天の気である人相よりも、後天の気である食餌法で運命を変えられるという事を顕わしています。 結論からすると、南北教えの要点は、如何なる善相良運健康な人であっても、美食を繰り返し腹八分目以内に食事制限できなければ「悪相」となり凶運短命となる。また、如何なる悪相凶運病弱の人でも、食餌法を徹底して腹八分目以内を厳守し、これを日々実践すれば良運となり、健康長命となる、という事を言っています。 さて、昨今の現代人の食生活はどうでしょうか。 今、日本は不況下にありながらも飽食に時代を満喫し、「腹十二分」の欧米一辺倒の西洋料理に舌鼓を打つ食生活が繰り広げられています。 欧米を崇拝するあまり、日本的なものを心の底から毛嫌いし、それに批判を加える事が高等な文化の様に思われる傾向にあるようです。 ここで日本人の血を造り、その肉体を培った「食」とは何か、という事について、再び考え直す必要があります。 「食」とは、人間が生きて行く為の原動力の源です。 しかし今日の食文化は、グルメや美食に翻弄されて、誰もが水野南北の発見した法則とは、逆の方角に眼を向けて突き進もうとしています。それはまさにに、「永遠の不幸」を齎す死への方角です。 南北は、人間がどんなものを食べたら、どんな人相になるか、あるいはどんな風体になるか、厳しい眼で日本人の将来を見据えた賢人です。 そして「日本人とは何か」という、連綿と続いた日本的伝統文化とは何か、という事を霊的な立場から探究した人でした。 『相法早引』の序文によると、南北は、真言の高僧・海常律師により改心し、相法を学び、師の俗姓「水野」の名字を許されたと述べています。 また、海常律師から中国より渡った相書『神相全編』を学び、その後、実地で観相して修行する為、諸国を遊歴し、相法を確立したとあります。 三十歳頃、京都で観相師の看板を掲げ、『南北相法』や入門書ともいえる『相法早引』などを出版し、相法家として名声を博し、全国に多くの門人を持つ事になります。 享和3年(1803)、恩師・海常師の追善供養の為に、一千部にも及ぶ『相法早引』を無料で施本し、これによって慈雲尊者から居士号を授けられました。 しかし『相法早引』と題した観想法は百発百中とはいえず、後に伊勢神宮に詣でて、外宮の祭神・豊受大神に導かれて大悟したのは既に述べた通りです。 そして美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに至る過程には、伊勢の五十鈴川で断食水行50日の荒行が功を奏し、粗食・少食の食餌法より運を変えることが出来るとしたのです。 南北は自身で、幼少より身体虚弱で、三十歳まで生きられないと言われていましたが、若い時、感ずることがあって食養に努め、以降、名を馳せてからも、宴会などは極力辞退し、一日一合五勺の酒しか飲まなかったと言います。 食餌法における栄養所要量は客観的に見て、「腹八分目」が食べる量の目安です。 また、栄養所要量の方は、栄養学的に言うと必要量を満たす事に重きが置かれているのに対して、「腹八分目」の方は「足るを知る」ことを説いています。 日本の近代史において、太平洋戦争を挟んで、「足りる」から「満たす」ことへ移行し、近年に至っては「十二分に食べる」が常識となりつつあります。 それ以前の、例えば明治や大正生まれの祖父母は、「腹八分目」をくどいように繰り返し、大食を戒めました。ところが戦後は、栄養を取ることが強調され、現代栄養学の食餌理論に則って誕生した健康優良児などが大いにもてはやされました。昭和三十年代後半から四十年にかけてその頃の親達は、我が子が小食で、食が細ければ嘆いたものです。子供達は学校へ行っても、給食は残す事もできず、沢山食べろと叱られて育ちました。 こうした日常は、今日の働き盛りの健康を疎外するような元凶を作ったのです。 食っても食っても、喰い足りないという「ドンブリ腹」は少食という「適量加減」を失わさせ、節約や倹約という「善行」を人々から奪い取ってしまいました。 しかし南北の粗食・少食の実践は、食事量を「腹六部目」にし、残りを神や他に捧げる事で、健康と運命開運法に結び付けたのでした。また南北は食を慎み、そして乱さず、元々貧相で短命であった自らの運命を変え、その後、病気や災難にも遭わず、七十六歳まで生き、財も残しました。 そして死に際、南北が感得したものは、大食する者は、人相が吉でも運勢は凶になり、少食の者は、生命が尽きても食が尽きないので、死病の苦しみがなく自然死に至るというものでした。 「吾れ衆人の為に食を節す」と、一日に麦一合五勺、酒一合だけに徹して、「足るを知る」人生は見事なものだったといえます。 武士の伝統食文化 日本は国全体が四方を海に囲まれ、世界でも稀なる自然に守られた国土を有しています。海が堀の役目をしているのです。この日本を取り巻く海という要塞は、一種の本丸を護る「堀」であり、日本を今日まで幾多の危機から守り、外敵の侵入を阻止してきました。 一方、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸では陸続きの為、幾度となく悲惨な戦争が繰り返され、多くの人の血が流され人命が失われました。 各々の大陸の歴史には、人間が人間を殺戮した悲しい出来事が記されています。にも関わらず、それらが頻繁に繰り返され、王朝や国家が次から次へと滅んでは登場しました。その登場の裏には、人間の欲望が見え隠れしていました。 有史以来人間の欲望は、概ねが権力欲や支配欲であり、富と領土の独占でした。 覇者はそこに全神経を注ぎ、それを原動力として一筋に執念を燃やしました。一旦独占しても、支配者が自分の欲望領域で満足できなくなれば、武力を駆使して、近隣の国家や民族を征服しようとします。それが「戦争」です。 戦争は領土と富を強奪する、最も手っ取り早い手段であり、今日に至っても、それは殆ど変わっていません。
indexへ
次へ