Fall 2004 Poultry Press    English Next >> 

“ウェルギリウス・バトラーと
ローラ・アレクサンダーとの対談
「屠殺場労働者がアニマルライツ活動家に」

Photo By: Karen Davisアーカンソー州のGrannisにあるタイソン鶏屠殺場で1997年から2002年にかけて勤めていたバージル・バトラーは、毎晩目撃してきた鶏に対するぞっとするような扱いを記録し、2003年の1月にPETAを介して公表しました。彼の記録とウェブサイト上の暴露により、2003年12月8日にロサンゼルスタイムスに「屠殺室物語」として冒頭ページを飾る結果となりました。2004年の8月21日には、バージニア州ノーフォークで行われた第五回UPC年間フォーラムで、タイソンでの経験のコンファレンスプレゼンテーション「タイソンの地獄の裏側―なぜ私が鶏屠殺の仕事から抜け出したか」を行いました。

公表後のインタビューでは、バージルとそのパートナーであるローラ・アレキサンダーは鶏産業やお互いの関係について、またその二人の関係が、彼の言うところの「屠殺場の従業員が活動家になる」ことにどんな影響を与えたかについて語りました。

Q.バージルさん、ローラさんに出会った時にタイソンでしていた仕事のことを教えてください。

A.私は裏のドックで生きた鶏を足かせにはめる仕事と、屠殺部門での仕事をしていました。私は、何年か金具はめのリーダーをしていたので、新しい作業者にどうやって鶏を金具に引っ掛けて殺すかを教える役割もしていました。ハンギング・ケージの中で、他の6人と一緒にラインについて、鶏を下ろして金属の足かせに逆さづりにしました。ラインでは一分間で182〜186羽の鳥が流れていたため、私たちは一分間に26〜30匹の鳥を引っ掛けなければなりませんでした。新人が逃してしまった足かせを埋めていくのも、リーダーとしての私の仕事でした。そのためその補充作業と片脚しかか
かっていない鳥を掛けなおすことにとても長い時間をとられていたため、何のトレーニングも実施できなかったんです。
夜間に屠殺部門で働くこともありました。屠殺作業者は、屠殺機が逃した鶏の喉を切っていました。この作業では、よく研がれた6インチのナイフをもって、機械がミスしてしまった鶏をできるだけ多く処理しなければなりません。なぜならここでミスをすれば鶏は、生きたまま熱湯の中に漬けられることになるからです。鶏が熱湯に漬けられる前に死んで血が抜けるように、頚動脈と頚静脈の両方を切る必要がありました。これは高いスキルと大きなリスクが伴う仕事で、その部署で一番危険な作業でした。唯一私が知る、重大でしかもタイソンで働くうちに何度も目撃した事故は、片脚だけ掛かった鳥の首を切る時に起きていました。これは私の身にも度々起こりました。私の手には、その時についた傷跡がそこらじゅうにあります。

屠殺室は、足かせの作業よりも嫌なものでした。血まみれになってそこに立って何度も何度も殺していると、頭がやられそうになりますよ。血は9インチのゴム長靴ほどの深さになることもあって、3人がかりで動かせるような大きな血の塊を見たこともあります。排水溝に流すのに足で踏み潰さなければなりません。2時間半に一度、それをしなければならないんです。毎晩一回のシフトで、ディーゼルトラックが血で一杯になっていました。目に血の塊が入ってしまってぬぐうこともありました。屠殺の作業は一番嫌いでした。でも私は作業がうまかったので、何度も働かされることがありました。

Q.ローラさんに出会うことで仕事への態度はどう変わりましたか?何が起こったのか、また理由も聞かせてください。

A.もう仕事に行きたくないと思うようになりました。会社に行かない言い訳を探し始めました。うんざりしていた…まさしくそうでした。去年あたりは何度も具合が悪くなりました。そして恥ずかしいと感じるようになったんです。ローラには具体的に何をやっているのか知られたくありませんでした。彼女の前では屠殺場で何が行われているのか絶対に口にしないように、同僚たちにお願いをしました。ローラは動物たち…すべての動物を大切に思っています。だからもし自分が関わっている出来事を知ったら恐ろしくなるだろうということを知っていたんです。

A.ローラさんにお尋ねしますが、私たちと行ったフォーラムでバージルと初めて屠殺場へ付き添ったときの感想を述べてくれましたね。その感想とローラさん自身やバージルさんとの関係に生じた影響についてお話ください。


A.私は前に一度屠殺場へ行ったことがあるんです。と言っても駐車場までですが。でもそこでさえ、確実に感じられる悪い空気というか、そんなものを感じました。ある日バージルが仕事のせいで具合が悪くなった時のお給料の小切手をもらいに行ったんです。ちょうどシフトが始まるちょっと前で、まだ工場は稼動していませんでした。それで私はバージルに、足かせにつるす場所に連れて行って欲しいとたのみました。どういうものか、自分の目で見てみたいと思ったんです。

嫌悪感を抱いたり、悲しくなって気分が悪くなったりするだろうと自分の中で心の準備はできていたつもりでした。でも実際に見たとき、準備などできていなかったと確信しました。言葉で言うのが難しいんですが、ドアを開けた瞬間、波動というか、城壁のような、ネガティブなエネルギーが私を襲いました。唯一比べられるとすれば、病院や刑務所のような、苦しみとか死が漂う恐ろしい場所に似ていると言えるでしょう。わかるかしら?それが10倍増したような感じだと思ってもらえれば、私がその日部屋のドアに立ったときの気持ちがわかるでしょう。私はそこをすぐに立ち去ることができませんでした。

トラックの中、家につくまでそのことを話し続けました。その時は気づきませんでしたが、今思うとバージルは、私が不満をぶちまけ続けるのを助手席で頭をうなだれながら聞いているだけでした。私はただ憤慨して、声を荒げていました。後に、その夜バージルは、自分はもうこの仕事を続けることができないと確信したということを知りました。彼は今までしていたことをとても恥じたんです。それ以来何度か困難な時がありました。バージルは私が拒絶するように、そして彼と行動を共にすることがないように仕向けているようでした。

もちろん、その態度は私にとっては逆効果でした。彼の態度でバージルに対する同情の気持ちがよりいっそう強くなり、最初に彼を苦しめたものについて理解するようになったんです。そして、これを乗り越えて彼を救おうという決断をよりいっそう固めることとなりました。彼が長い間その生活に支配され、彼自身それを得意で唯一の才能だと信じ、運命のように感じていたと思うと、とても心が痛みました。彼をかわいそうだと思いました。結局はその出来事がお互いを歩み寄せたんです。そしてこの接近によって、ついに私、そして世界へ伝えることができました。バージンは奥底では悪い人ではありませんでした。ただ自分を見失ってしまっただけなんです。

Q.バージルさんが文書にした中でもっとも説得力があったもののひとつに、屠殺ライン上で鶏の目を見て、恐怖を見て取る、というものがありました。鶏とそのように関わり始めたのはいつでしょうか?鶏を「見なかった」けれど見るようになった転機があったのでしょうか?苦しんでいるのが見えたけれど、気に留めてはなかった、でも気にするようになったという変化があったのでしょうか?なにが起こったのでしょう?


A.初めて殺した時からその関わりを感じていました。それは仕事の妨げをした一つの原因です。他の従業員から嫌われる意見だったので、自分の感情を抑えていました。その感情はどんどん増し、悪くなる一方でした。ローラが付き添いでやってきたころには、すでにとても嫌になっていました。でもローラのおかげで、公の場に出ることでそこから一生離れることができるようになったのです。その時自分はもうそこへ戻れないと思いました。もうあんな考えは持たないように自分を戒めるため…それはこうして公にする理由のひとつでもあります。

また、動物を深く気にかけている他の人々と知り合った時、進んでこの自分の役割をなし遂げなかったことは間違っていたと感じました。特に私は彼らが戦っていた(動物に対する)苦痛に対してとても多くの責任がありましたから。私は自分がやっていた仕事が悪い事でその行動を正当化して続けていたと知っていましたし、何年にも渡って積み上げてきた罪悪感のを乗り越えるためにはいい方法だと思っています。

Q.バージルさん、あなたのような心境の変化は、いわゆる「孤立した出来事」で珍しくて独特のものだと思いますか?それとも、ただ単に隠しているだけで、似たような思いやりの感情を持っている屠殺場の作業者がいると思いますか?もしそうなら、なぜでしょうか?そしてその思いやりを表に出すには何をしたらいいのでしょう?

A.私の感情は特別なものではありませんし、こうして前に進み出た人も他にいると思いますし、私が最後ではないでしょう。これから他の人たちも出てくると思います。他にも私と同じような人数人と話を交わしたことがあります。多くの作業者達の口を塞いでいるのは、私が実際に経験したように、新しい仕事が見つからないことと、タイソンに関係のある人達に避けられることを知っているからです。話をした中では、仕事が好きだという人は誰1人としていませんでした。彼らは他に選択肢がないと思っているからそこにいるのです。もし他に良い仕事があれば、すぐに辞めるでしょう。

Q.ローラさんとバージルさんにお聞きしますが、あなたたちはチームとして動いているんですよね?あなたたちの運動について教えてください。今はどんなことをしていて、どんな計画を立てているのでしょう?


A.私たちはチームで、どんなことでも一緒に行動します。どんなことでも。アニマルライツ活動が始まる前から、環境問題の取り組みを行っていました。すでにスピリチュアルヒーリングを研究していたし、この地球の住人として責任感を持とうとしていました。リサイクルをしたり浪費的にならないように気をつけたりしてね。アニマルライツは物事を総括するように思えます。もちろん、自分たちの食事も変えました。虐待行為からできた製品を消費しながら、その虐待を非難するなんてできなかったんです。もともとついていた、苦しめられて悲しそうな顔を見ることなく、肉の一部を見ることなんてできませんでした。

今のところ、バージルが殺し屋から救い主になるまでの変化を記した、彼にとって初めての本を書き上げるつもりです。それから、生活の基礎に対する選択が招く結果を多くの人に気づいてもらうように積極的に話していくことです。もし人々が家禽産業や政府に嘘をつかれていること、そして私たちが語った身の毛のよだつような出来事が決して特別なことでないと知ったら、自分の行動が世の中、特にその世界に共存している罪もない動物たちに与える影響に対して疑問をもって自問してくれると願っています。

ローラさんには cybergypsy1964@yahoo.com. からメールを送ることができます。
www.cyberactivist.blogspot.com にアクセスしてください。


バージルさん死去のニュース the peta filesより

元アーカンソー州の屠殺場の従業員であり、ファクトリーファーム(工業式畜産)の恐ろしさを教育するため人生を捧げたバージル・バトラーさんが、昨晩(2006年12月15日)に亡くなりました。41歳でした。バージンさんはタイソン屠殺場で9年間働き、とても危険な労働条件の中、少ない給料のために一回のシフトで80,000羽もの鳥を殺していました。しかし2002年バージルさんは、毎日うんざりするほどの人間と動物の苦痛を
目撃してきたから、それを止める手助けができないかとPETAにコンタクトをとってきました。彼とその妻の気持ちを話し合うなかで、バージルさんは、「鶏を食べるのをやめさせるほどに自分の見てきたものはおぞましかった。

少し調べてみると、家禽産業はほかのファクトリーファーミングよりもさらに劣悪であることが明らかとなった。もう他の肉も一切食べない。私たちは、一日の中で少しの時間を使ってファクトリーファーミングと戦っている。」と話しました。


その後4年間、バージルさんは家禽産業のゴリアテ(巨人)に対するダビデ役として勇気と工夫、そして無限の忍耐とユーモアを持って立ち向かってくれました。自分の経験をニュース討論で伝え、彼自身のブログ「Ciberactivist」では動物と人間の権利について力強く語り、彼の思いやりのある行動を例に何千もの人が変わるきっかけを作りました。彼の遺産は思いやりであり、希望、忍耐力でもあります。そして彼の訃報は深い悲しみです
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