講演会
癒しの杜の会
曽川和翁(イオンド大学教授・哲学博士)の主宰する「癒しの杜の会」では、『大東流霊的食養道』の食理念に基づき、日本古来からの日本人の食体系に食餌法の正しい姿を見い出し、各種の食養道クッキング教室講習会や個別講演会ならびに個別相談室を設け、本ページでは伝えきれない食改革や開運法を実践していこうという主旨をもって、現在活動を行っております。 今日の日本の直面する様々な諸問題や、食体系や農業、健康や医療、未来の「見通し」や開運、そしてガン最前線速報と言った自然食治療などをテーマに解消策を啓示し、それを実践していく、「食養相互扶助の会」です。 【message】
日本は今、激動の渦に孤立する状態にあると言えます。 そして今後予想される不況の深刻化は、政府の構造改革という課題だけには止まらず、私達、国民生活にも深刻な影を投げ始めています。 こうした翳りの空気を如実に悟り、これに防衛の策を講じる人は以外にも少ないようです。 多くは、不況に時代でありながらも、一方で飽食の時代の余韻を引き摺り、美食に舌鼓を打って、太平の世の眠りを貪る風潮は、未だ尾を引いたままです。 こうした眠れる平和惚けの大衆庶民が、眼を覚まし、集団催眠の暗示から解き放たれる時はやってくるのでしょうか。 一口に、日本人は一億総中流といわれます。しかしこの「中流意識」を真剣に考えて、そこに欺瞞と搾取の匂を嗅ぎ取る人は稀のようです。 一億二千五百万の日本国民は、中流の中に埋もれ、アジアでも比較的裕福な生活水準にあります。 しかしこうした現実は、マスコミによって操縦された虚構であり、巨大勢力によって家畜化されてしまったという日本国民の実像があります。 国民がこうした体制下の押し付けを、このまま甘受し、忍従続ければ、国民の総ての財産は、税金という合法的な手段で、巻上げられ、悉々く搾取の対象に当てられてしまうでしょう。 こうした波及は、今、日本伝統の食文化にも及び、食体系が根底から狂わされている現実があります。
【癒しの杜の会・主宰 曽川和翁のプロフィル】
経歴:イオンド大学教授(Professor Ph.D/数学、哲学、物理数学、金融構造学、歴史工学、陽明学などが専門)。哲学博士。九州科学技術研究所所長。癒しの杜の会主宰。西郷派大東流合気武術宗家。昭和23年8月、長崎県平戸市生まれ。現在、北九州市小倉南区在住。研究学徒として日々精進を重ねる。 また立体人相学の研究家で、八門遁甲の数少ない研究者。 フジテレビ、テレビ朝日、その他の番組に出演。著作活動として『歴史群像』(学研)、『エルフィン』(学研)、『おはよう奥さん』の専属ライターを勤めた。 現在に至るまで、苦難の波乱万丈の人生を体験し、困窮の涯に試行錯誤を繰り返し、「希望への哲学」を探究して、絶望の淵から奇蹟的な復活を果たす。自らの経験や体験に基づいて、弱者の経営戦略術を指導し、倒産寸前の会社を再建させた経歴を持つ。 また数少ない霊的食養道の研究家で、「食養道」(玄米を正食とした穀物菜食主義)を全うすることで、長寿が維持でき、その根本は血の汚れを改善させれば、万病は自然治癒するという自然療法指導している。 著書に『八門人相事典』(学研)、『大東流秘伝大鑑』(八幡書店)、『大東流合気之術』(愛隆堂)、『合気の秘訣』(愛隆堂)、『大東流入身投げ』(愛隆堂)、『合気口伝書』(綱武出版)、小説『旅の衣』(綱武出版)、『大東流霊的食養道』(綱武出版)など多数があり、学術論文に『ライプニッツの形而上学叙説』、『常微分方程式の研究』、『崩壊するビッグバン・セオリー』、『国際陰謀学』『虚の時間、実の時間』などがある。
●「兇いメグリ」に遭遇するメカニズム●
人間は運気が衰退すると、それに併せたかのように体調も兇(わる)くなり、こうした悪循環の中で、難病・奇病に藻掻き苦しむという悪因縁に苛まされます。 そして運気が衰退し、不幸であると感じれば感じる程、より意地汚くなって守銭奴に成り下がり、つまらぬ博打に手を出し、敗け博打を重ねた挙句、過食に趨(はし)って大食漢になり、鯨飲(げいいん)を重ねて不摂生が積もりに積もります。これこそ「兇いメグリ」あわせの最たるものでしょう。 パチンコ屋を始めとして、競馬場や競輪場、ボートレース場やオートレース場に屯(たむろ)している大半は、こうした人達で占められています。 そして「ツキ」の何んたるかも知らず、一喜一憂の六道輪廻を繰り返しています。結局、取ったり取られたりをしながら、結果的には損をするという末路に見舞われます。博打で財産が残せないと言う事実は、これを明確に現わしています。 パチンコ産業を始めとして、その他の公営ギャンブルは、守銭奴のための慈善事業ではありません。 こうした場所に足を踏み入れ、玉を買ったり、投票券を買った時点で、一万円の価値は七千五百円から七千円になってしまい、後は「一山当てなければ」という希望的観測と、取られれば取り返すという博打的な心理に追い込まれます。 これは博打と名の付くもの、総てに当てはまります。そしてのめり込み、後は負け将棋をもう一番、もう一番というように最悪の状態に陥ります。愚者ほど、こう言う心理に陥りやすいようです。 さて、人間はこうした「兇いメグリ」に出くわす事が、厄年適齢期に襲ってくるようです。いわゆる「ツキ」に見放されるというやつです。 人間がもてる「ツキ」とは、健康体においてのみ可能であり、体調が思わしくなかったり、病気などをして不調である場合は、「ツキ」は逃げてしまいます。 それは「ツキ」の実態が、「運」という自信から出た「発気」(心・気・力の一致)の一種であり、躰が弱っている場合には、こうしたものは発動されません。 「強い」と言うことが「ツキ」を呼び、幸運を呼ぶ原動力であり、弱くなれば、こうしたものは忽ち逃げてしまいます。 この厄年適齢期に入ると、運気の衰運と同時に、体調が何かに惹(ひ)き寄せられたように狂い、魅せられて味覚異常を起こし、美食家になったり、肉常食者になったり、酒品の兇い酒豪になったり、とにかく品のない飲食・鯨飲の大食漢になるのは、間違いないようです。こうした喰意地が張ることを「どんぶり肚(ばら)」と言います。 そしてこの厄年適齢期に冒した、数々の悪業三昧は、必ず、五年後、十年後、一五年後に跳ね返ってきて、難病・奇病で吾(わ)が身を苦しめるという結果になります。特に、ガンを発病するという因縁は、この時に打ち込まれます。
●厄年とは何だろう●
人間には厄年と言う、一生のうち、三度の厄(やく)に遭遇する齢がやってきます。これから逃れられる人は極めて少ないようです。 一般には、忌み嫌われることから、何事も控えめにして、慎まねばならない年齢とされています。 この厄年の思想は、本来は天(天命)が吾(われ)に、大命(大役を仰せつかる)を与えんとする前触れの齢で、大命を前に、慎みを教える大切な期間なのですが、これがいつの頃からか、忌み嫌われるようになりました。同時にこの年齢は、苦難も強いるからです。 本来の厄年の「厄」は、「役」であり、「大役」を意味するものでした。 ところが、人間は慎みを忘れた頃から、「大役」の「役」を「厄」にすり替えてしまったのです。これが今日に言う「厄年」のはじまりです。つまり厄年の「厄」は、「災い」と解釈されてしまったのです。 そして「厄」に遭う、危険性が高いから、忌み慎まねばならないとする年齢という思想が生まれたのです。 男性は数え年(生れた年を1歳とし、以後正月になると一歳を加えて数える年齢)で25歳、42歳、61歳で、女性は同じく19歳、33歳、37歳の年齢がこれに当たり、特に男性の42歳と、女性の33歳を大厄(たいやく)と言います。 また、その前後の年を前厄(まえやく)・後厄(あとやく)と言って、恐れ慎む風習が生まれました。他にも呼び名は、「厄回り」とか「年忌(としいみ)」などと言います。 さて、こうした年齢に伴う転機を、食の世界の変化と重ね合せて見ますと、その体躯に併せて変化して行く過程が分かります。 男女とも、人間に訪れる三回の転機が、各々の人生において、変化を齎すことは明白です。また、こうした変化の分岐点であるこの時期に、食との関わりを、良い方向に改善して行かないと、後に取り返しのつかない状態に陥ります。 これを年齢的に見てみますと、次のようになります。
【男性の場合の厄年と巡り合わせ】
男性は25歳(満24歳)・42歳(満41歳)・61歳(満60歳)が厄年であり、これを前後して、合計三年間の前厄・後厄期間があり、その頂点が数え年に当たる年齢ですが、厄の巡り合わせには、人によって多少のズレが生じるようです。 また厄年と厄年の間隔は、男性の場合、数えで1歳から25歳迄で24年間、25歳から42歳迄で17年間、42歳から61歳迄で19年間という間隔で、そのピークが厄年半ばの42歳が大厄とされています。 この男性の大厄を、統計的に見てみますと、どうもこの年齢には事故や病気や失業などが同時に襲って来ているようです。 しかしこの兆候は、これを前後した一年前から発生するのではなく、十年前、あるいは十五年前に現われはじめていると言えましょう。こうした兆候を「衰運の仕込み」と言います。 しかしこうした「衰運の仕込み」の楔(くさび)を打ち込まれる、若い時期にこうした事に警戒する人は殆ど居ず、肉常食者としてガンの因縁を引きずったり、暴飲暴食や不摂生の限りを繰り返します。「兇いメグリ」は食生活の中で、既に、この時に始まっているのです。 そして第一次関門のを25歳で無事クリアーすると、次に控えたのは、42歳の大厄です。危機の兆候が、働き盛りの42歳を前後に現われはじめ、これが人生の頂点であり、「兇いメグリ」も「良いメグリ」も同時に現われるというのが、この大厄です。 図表は、縦軸に赤血球が体細胞化して、故障箇所を修復する復活回数を現し、横軸は年齢を現わします。生まれた時を0歳として復活回数が50回とすると、120歳で復活回数は0回として設定しています。 そして男性の厄年期間は、生まれてから40歳までの四十年間を第一期復活群とし、40歳から80歳までの四十年間を第二期復活群、そして80歳から120歳までを第三期復活群として、それぞれのブロックで厄年適齢期を重ねると、第一期復活群と第二期復活群にまたがっていることが分かります。
【女性の場合の厄年と巡り合わせ】
女性は19歳(満18歳)・33歳(満32歳)・37歳(満36歳)が厄年です。また、これに前後して、合計三年間の前厄と後厄があり、男性と同じように多少のズレが生ずるものと思われます。 また厄年と厄年の間隔は、女性の場合、数えで1歳から19歳迄で18年間、19歳から33歳迄で14年間、33歳から37歳迄で4年間という間隔で、そのピークが厄年半ばの33歳が大厄とされています。 女性の厄年を注目した場合、数えで19歳・33歳・37歳という年齢は出産年齢と関わり合いがあり、これは結婚適齢期と出産時期に密接な関係があると思われ、結婚し、妊娠して、出産するという一連の作業と、出産後の産後の肥立ちへの養生が含まれています。 したがって表から察すると、女性の場合は第一期復活群の半ばから、後半部分に分布していることが分かります。
こうした厄年の男性、女性の両方から評しますと、「兇いメグリ」が表面化した場合、即、不幸現象に繋がるという現実があります。 昨今は食生活が欧米化されたため、食肉常食の時代であり、その結果、性腺が狂わされ、男女は異常性欲に趨り、十代半ばで性交を体験(女性の子宮癌や子宮筋腫は、若年男性の恥垢が原因で、男女の未熟による)し、既婚者であっても不倫という形態をとりながら、異性獲得に奔走します。 「類は友を呼ぶ」と言う諺がありますが、異常性欲者同士が性を需(もと)め合う傾向にあります。こうした行動に出る年齢が、奇しくも厄年適齢期と重なります。 そしてこうした性の氾濫の一方において、厄年適齢者は、男女とも、大きく分けて二つのタイプがあることに気付きます。 一つはプロレタリア・タイプと、もう一つはブルジョア・タイプです。 これは肉欲派と愛情派と言うように考えることもできます。 前者は物であり、あるいは金銭を目的としたことで、性交に及ぶ場合が多く、後者は愛情から入り、心の豊かさを求めるタイプです。 「金の切れ目が、縁の切れ目」という諺があります。人間は打算的に物を考えますから、落ち目になると、相手にされなくなりますが、一方、落ち目になっても、縁を保っていられるのは、愛情です。ただし、心が通っているという、条件下においてのみのことです。 しかし、厄年にはいろいろな、思わぬ落し穴があるので、こうした危険な時期に不倫などの関係を持つと、後で取り返しのつかない不幸現象が生ずるので、こうした事は慎むべきです。
●プロレタリア・タイプとブルジョア・タイプ ●
プロレタリア・タイプの人の精神構造は、喩えば形や物から入る人で、その見識眼が、外に向かっていて、外見で人を判断し、車やマイホームといった物財に執着する人です。このタイプの人は、見い出す価値観が「物」であり、「物」自体によって、生活の価値観を得ている人です。 また、ブルジョア・タイプの人の精神構造は、直接人を見る場合も、外見から入るのではなく、その裡側の中身を少しでも多く読み取ろうとする人です。同じ人間を見るにしても、服装や装飾品の評価に惑わされる事なく、とにかく裡側を覗こうとします。 つまり人間の「質」を、価値観の条件に置いて、人間相手の裡側の面から生活の価値観を得ている人です。 以上を職業的に分類しますと、前者は技術的作業を中心とした職工や職人達であり、後者は医者や弁護士や教師のような人達です。しかし昨今はこうした職業においても、サラリーマン化し、大衆化する傾向にあるので、こうした境目も稀薄になり、性格的には、小心で頑固で気性の激しい人であれば前者に移行し易く、言霊の世界に浸り、聞く耳のある人は後者に移行しているようです。 また前者は唯物的に物を考え、価値観は「物」であり、後者は唯心的に事象を捉え、価値観は「心」です。 神秘主義者が圧倒的に多いのは、ブルジョア・タイプの人で、事実、富豪と言われる人の多くは、菜食主義で、神霊的なものに関心を示し、とにかく洋の東西を問わず、富豪の家には神仏が必ず祀られていて、眼に見えない不可視の世界にも畏敬の念を抱きますが、プロレタリア・タイプの人は可視の世界のみを信じ、その価値観はあくまでも物への執着です。 貧富の差がこうした一面にも現われてくるのは、現世が物質世界のみならず、心的世界も複合されたものであるという証拠でもあります。そしてその指向する価値観においても、差が生じるという現実があります。 要は、「物」か「人間の心」かということであり、こうした考え方の別れも、大方は食に、その源を発していると言えましょう。 キリスト教的な「予定説」から挙げますと、食肉を常食するから肉体信奉者としてプロレタリア的に生きることが約束され、肉体労働に従事する。一方、穀物菜食を常食とするから、肉体労働を必要とせず、ブルジョア的に生きることが約束されている、という結果を考えますと、これが予め、神によって定められた、というふうに見ることができます。 特に西欧などの富豪は、こうした人達であり、王室や貴族はこうした「予定説」に準じた人であったということが解ります。したがって金銭感覚には疎い人達でした。 こうした社会体制が中世の封建時代を作り、その現実作用として「階級」を作り上げたのも、また事実の一つでした。 だから、生まれが変えられないのと同様、運も変えられないかという考え方が生まれました。しかし、実はそうではありません。 運命論者の言う「決定論」は、定まった未来の決定です。しかしこうした決定論から、未来に絶望するのも、また、未来に希望を託しその夢を見るのも、どちらも愚か者の発想です。 最も最善なのは、「今」という現実を考え、この「今」において、最大・最良の努力をする人だけが、未来に希望を抱く資格が与えられているのです。 未来とは、迫りつつある今日であり、今日、想像された事象によって、現在(今)が再現されます。また過去とは、記憶された現在(今)であり、いずれも「今」の総てにかかっているのです。 したがって、五年先、十年先、十五年先のあなたは、「今」のあなたの、思考力と行動力の総合作用によって、近未来の事象が決定されているのです。 怠け者の今は、その未来に堕落と貧困を。 不摂生を繰り返す者の今は、その未来に難病・奇病の困苦を。そしてガンを……。
●霊的食養道と見通し開運法●
私達は、過去・現在・未来という時間の流れの中で生きています。 しかし、この流れの中で実感できるものは「現在」だけで、「今」という瞬間です。 過ぎ去った過去は「記憶」の世界のものであり、迫り来る未来は「想像」の域を出ることはありません。 しかしこうした「未来」も、私達の心の中にあるとしたら、その先の事を予測する事は可能だということになります。 「未来を予測するという事が可能」という、これは「見通し」という言葉に帰着します。 では「見通し」とは、具体的にどういうものなのでしょうか。 私達は、事を行う場合、必ず計画や目標を掲げます。自分の願望を成就させるために、まず、過去の経験や成功者の話に耳を傾け、そして計画を立案し、目標を掲げ、未来の設計図を数式や図形に現わして、未来設計図を作ります。そしてその実現に向けて、惜しみない努力を注ぎます。 その意味で考えれば、現在は、今の自分の過去の思考や行動や経験に基づいた基盤の上に立てられた、未来設計図が現在という時点に、既に設けられたいるという点に帰着します。 と言うことは、五年先、十年先、十五年先の未来は、現在の自分の思考力で展開されているということになります。 したがって、如何なる境遇の人であっても、現在の思考力と、過去の経験から学んだ行動様式を基盤にして、「私達は未来を創造できる」という事が言えます。 こうした事を換言すれば、未来とは「創造された現在」ということになります。そして過去は、「記憶の中の現在」であると言えます。 この事から、私達の未来は「今という、現在の心の中にある」ということになります。 そして大事なことは、「未来」という現象が、初めから定められたものではなく、常に変化を伴っているというのが、「未来を創造する出発点」になっているのです。 この出発点から、未来を睨(にら)んだ事を「見通し」と言います。 「見通し」が立てば、未来は明るいものになるでしょうし、逆に眼の前に霧か雲が現われて曇りが起これば「見通し」が立たなくなり、未来を失うかも知れません。 人は明るい未来を運が良いと言い、昏(くら)い未来を運が悪いと解釈します。また、こうした事象を外側から見れば、確かに運の良い人と悪い人がいるようです。 世の中には、悪い事をしているのに益々発展し、正しい事やルールを守っている人が恵まれずに困窮していると言った、こうした例は決して皆無とは言えず、ここに現世の矛盾が横たわっています。 しかしこうした運は、その人の行いに関わり無く、善い事をしているから発展し、悪い事をしているから墜落するとは言い切れないのです。 ではこうした「運」という現象は、一体何処からやってくるのでしょうか。 さて運とは、果たして偶然の産物なのでしょうか。 偶然と偶然が重なった時、奇蹟が起こると言います。しかし奇蹟とは、果たして偶然が連続して起こるものなのでしょうか。 こうした考えを持っている人は、えてして他力本願であり、また、運を偶然の産物として一蹴(いっしゅう)する人は、運の背後に潜む、法則や宇宙の玄理(げんり)が解っていないために、こうした早計な結論に至ります。 人間は経験によって、未来を判断し、それを材料にして「見通し」を立てます。 しかしこうした過去の反省材料の中には、大衆および庶民の心の中に、過去に起こったあらゆる恐怖が封じ込められています。これが表面化すると、心身ともにアレルギー反応を起こします。 日本人は第二次大戦末期、広島と長崎に人類初の原子爆弾が投下されて、それ以降、核アレルギーになっていますし、戦争を経験した世代は、戦争はもう懲り懲りだと言う苦い経験を持っています。 また、戦争を知らない世代でも、ベトナム戦争などを通じて、反戦の意識は高く、その潜在意識下には、恐怖の概念が埋もれていて、それが私達を襲ってくるという、下地がセットされています。 「恐れるものは皆来る」という言葉からも解る通り、心の潜在部に、こうした欠片(かけら)が一つでも残っていれば、それは「兇いメグリ」として再び現在に具現化します。 さて、ここで問題になるのは、大衆・庶民の深層部に、こうした過去の忌まわしい想念があった場合、これは即、自分自身に浸透して、そのまま、種々の不幸や不運に巻き込まれるということです。これが「不幸・不運の恐怖症」です。 この恐怖症は間違いなく、その意識下に沈殿し、汚染されていて、必ず自分自身に跳ね返ってきます。 そこで「永遠の真理を知る」という、思考力を働かせる活用法が必要になってくるのです。
●永遠の真理を知る●
国民気質として、大衆や庶民と言われる層の意識の中には、深層部の片隅に、必ず「恐怖」という文字が埋もれています。 これが「恐れるものは皆来る」の所以です。 懸命に努力して、「後は天運に任せる」と言うだけの、事後処理だけが残されているのに、「もし」という恐怖心が起こります。この「もし」は、多くの場合、「失敗するのでは?」という疑念に通じます。 本来ならば、成功したときの事だけを一心に考えていればいいのですが、大衆や民族の心の中には、失敗の気持ちを恐れる、常に「もし」が叩き込まれ、成就できなかった時のことを心配する意識が宿っています。その「埋もれた意識」が、未来に昏い影を投げかけます。 斜陽、黄昏(たそがれ)と言ったイメージは、こうした「埋もれた意識」から来るのではないのでしょうか。 そこで「永遠の真理を知る」という思考が起こって来るのです。 これまでの、先祖や先達が描いた「何かが襲って来る……」という想念は、自分自身で思考し、処理しなければ、大衆の心や、民族の昏(くら)い翳(かげ)りは、そのまま自分自身の中に浸透し始めます。 実は、不幸や不運はこうした昏い翳りを、自分自身に反映してしまったという現実下に起こる現象なのです。 つまり「兇いメグリ」は、自分自身の想念が齎したものでなくとも、それを自分は代わって遺伝子レベルの意識で受け継ぎ、それを体験するという現象なのです。 こうした想念現象が「心像化現象」であり、この想念が頂点に達した時、その飽和点を乗り越えて、次々と種々の不幸と、種々の不運を運んでくるのです。 その結果、運気の欠乏状態に陥り、自分を襲い始めます。これが不幸・不運の実態です。 人は、これを偶然と言います。人知を超えた天災と言います。 しかし果たしてそうでしょうか。 こうした経緯の出発点を考慮していくと、自分を見失い、他力本願によって、安易に他人の考えにより、否定的な条件下において、それが必然的に具現されただけのことではないのでしょうか。 つまり不幸・不運という結果が、否定的な条件下で発生し、それを黙認して、更には善後策を講ぜず、見逃してしまったという自分自身に原因があるのではないでしょうか。 これを偶然と一蹴するのは、あまりにも短見であり、ここには最初から必然的な予見があったと考えられます。
●知恵と運気の活用法●
かつてエジソンは、著名な物理学者から「電気とは何か?」ということを訊ねられました。 これにエジソンは答えて曰く、「私には解らない。その正体も皆目検討がつかない。しかし電気は便利であり、この便利なものを利用して、私はいろいろな道具を作ろうとしているのだ」と答えました。 その後、彼の予言通り、エジソンは、発明及び改良を重ね、電信機・電話機・蓄音器・白熱電灯・無線電信・映写機・電気鉄道などの偉業を成し遂げます。そして更に、電灯会社及び発電所の経営によって、電気の普及に成功します。 その発明品の中でも、1901年に彼の発明したエジソン電池は驚異的なものであり、今日のエレクトロニクスの基盤をなしました。 この電池は、水酸化ニッケルを陽極、鉄粉より成る極板を陰極とし、少量の水酸化リチウムを含む、水酸化カリウム溶液を電解液とする電池です。そして今日では、必需品となり、エジソンの発明によって、世の中は驚異的な、便利で快適な生活が可能になりました。 特に、今日のエレクトロニクス、あるいはコンピュータ技術の発端を開いたと賞される、二極真空管はその発明品の中でも群を抜き、今日、多く人々がその恩恵に預かっています。 二極真空管は、内部を高度に真空にし、電極を封入した中空の管球で、陰極から陽極に流れる電子流を制御することによって、増幅・検波・整流・発振などに幅広く用いられましたが、現在はトランジスター・ICなどの半導体にその座を譲り、一般用にはほとんど使われていません。しかしマイクロ波管やX線管など、その特殊用途に名残をとどめ、必然的にはエレクトロニクスの世界で、端緒を開いたのは紛れもなく、エジソン自身でした。 さて、エジソンに「電気の正体は何か?」と質問した著名な学者は、単に物理学の教科書に一行程度の名前を留めただけでした。ところがエジソンは、教科書に名前をとどめるだけではなく、発明・発見という偉業を成し遂げて、種々の驚異的な恩恵を人類に齎しました。そしてエジソンの名を知らない人はいません。 果たして、私達はどちらの人間になるべきだったのでしょうか。
●順風満帆の人生なんてありえない●
人は、人間の衆生と性によって、順風満帆の人生を好み、これを確保するために保身に身を委ねます。 多くの人が、あくせくして働き、富を求めて奔走する原動力は、せめて、若いうちに、一生懸命に働いて、老後を楽して生きたいという考えがあるからです。 「苦あれば楽あり」の思想です。 だから少々のことは無理をします。ある意味で、「賢明」で、「前向きな考え方」と言えましょう。 これも偏に、晩年の順風満帆の人生を期待しているからに他なりません。しかし果たして、こうした人生が晩年に訪れるのでしょうか。 私達日本国民は、物心ついた時から、幼稚園か保育園の年少クラスに入れられて、六歳にして小学校に上がり、勉学の重要性を叩き込まれ、中学までの義務教育を終え、受験戦争の兵士として戦いに勝ち残り、その暁に高校・大学へと進みます。 これはある意味で「賢明」であり、「前向きな考え方」と言えます。 ところが日本は、世界でも有数な教育制度の発達している国ですから、こうした学制の結果、素晴しい人生哲学を誰もが有しているはずなのですが、現実はこれとは大きく異なります。 「賢明」と「前向きな考え方」を駆使して、父母の激励を受けて学校に行き、教育を受けているのにもかかわらず、人生哲学をそこで学ばず、そして教えずの実情から、授業には参加したものの、実学として得るものはなかった、という形で世の中に放り出されます。 喩えば、経済学では、経済の一環として金融経済の構造と仕組を習う分けですが、ここで学ぶ金銭教育は、出納帳を管理するような簿記と金銭の出し入れの学問的論理が中心であり、「金銭」という実体が、どのように経由して「働くか」という実学は、何一つ教えることはありません。 もっと具体的に言えば、金融経済の実際において、金銭は蓄えるだけでは「殖える」ということはなく、「働かせて」はじめて殖えるという現象を起こします。 つまり金銭の運用によって、富を築くという具体的な教育を、学校では指導してないということになります。 その結果、人の一生は、金のために、あくせくと働くという現実が生まれます。 賢明な思考を養うために学校に行き、前向きな手段として、老後を安定させるために、学校では人より良い成績を取り、優秀な成績で卒業し、難関の採用試験に勝ち抜いて、一部上場企業や、キャリア官僚やそれに準ずる職業に就職するために奔走するのですが、それでもやはり、就職後は、金のために働くというラットレースに与(くみ)されてしまいます。 こうした現実に振り返ると、変化に富み、不確実性の連続が連なる現世では、人生に前々から準備した「回答」を出すということより、指針を見極めた「見通し」を立てるということが、如何に重要であるかが解ります。
●転ばぬ先の杖としての「見通し」●
人が、未来を設計する場合、綿密な計画によって、科学的に行動しているように見えます。 ところが、計画通りに物事が運んだためしはありません。必ず何処かで不測の事態が起こります。 科学的な思考を以て、綿密に事を運んだとしても、不測の事態が生じた場合、それを解決する為に判断に遣われるエネルギーは、その人の主観的な決断によって下されます。 この主観的な決断とは、これまでの経験に基づく、理解力や確信、あるいは過去の臨床例や判例といった判断材料を組み合わせて、その事後処理に当たります。ある意味で科学的と言えましょう。 ところがこうした判断材料が、有効的で妥当性のあるものか、極めて疑問です。 喩えば、人生に深く関わる友人や結婚相手を選ぶ場合、私達は科学的な決断を下して、その伴侶を選ぶでしょうか。 そこに作用するのは感性であり、情緒であり、直感ではないのでしょうか。 それは就職先を決定する場合も同様で、常に感受性を駆使した領域のもので判断されています。 確かに、判断材料の一部として、科学的な計算や損得勘定、情報や知識、将来性を暗示する経歴などの打算は取り入れることがあっても、その決断において、総て科学に頼るということはないのです。 これを更に具体的に言うと、特に伴侶の場合、親や何人かの友人や先輩のアドバイスは受けることはあっても、結果的には自分が自分で、どう行動したら良いかという、運命を選択するのであって、運命を決して自分で判断しているのではないのです。 適任者か、そうでないかは、自分が深層部で描いている潜在意識の中に隠れていて、「よい人だよ思えば、よい人であろうし、悪い人だと思えば悪い人になってしまう」のです。 つまり、悪い回答を恐れることは、結果的に、恐れた結果を現実として手に入れたということになるのです。「災い」はこうして訪れることになります。 「恐れるものは、皆来る」の所以です。 パウロの黙示録の冒頭には、こうあります。 人間は災いである、 罪人は災いである、 なぜ、彼等は生まれてきたのか。 この言葉は、既に人間であることが「災い」と言い捨てているのです。 そして災いを起こすから、人間は総て「罪人」と定義しているのです。 この言葉に回帰すれば、一方で災いとしながらも、もう一方で倖の現実があることを暗示しています。 自らの運命は、「吾が掌中にある」という、宇宙の玄理に則した思考をすれば、自らの思考で宇宙と調和した未来が創造され、自らの望みは悉々く叶えられるというのが、現世の心像化現象の実態です。 人は誰でも、まず、自分がよりよく生きるために、想像力を十二分に駆使して、その実現に向かって努力を開始します。それをサポートする機能として、高性能な受信器(第六感であり、勘)を持っていて、それを自身の裡側から判断や行動の指針にするように出来ています。ただ、それを現在遣うか否かで、未来は選択されます。 遣えば良き方に、遣わなければ悪き方にと。 「禍福(かふく)は、糾(あざな)える縄の如し」なのです。 そしてそんな幸運も永遠に続くものではないし、またどんな不運も永遠に続くものではありません。 本人の心掛け次第で、如何様にも変化するのです。それには、まず否定的な想念は絶対に描かず、成功を目指して邁進しているのなら、成功をした時のことだけを考えていればいいのです。 また、現在病魔に悩まされ、辛い闘病生活のドン底にあったとしても、やがて病気が快復して、元気に健康を取り戻せて、未来を溌剌として働いている容子を心に描いていればいいのです。 ただ、こうした未来をしっかりと描き続けるには、「今」という現在の時点で、何をしなければならないか、という事が認識できなければ、こうした未来も決して訪れる事がないのです。 「癒しの杜の会」では、こうした、「今」を悩める方々に、あらゆる情報とアドバイスを提供し、少しでも現実の不幸現象を解消して頂きたく、食革命・改革を通じて難病・奇病からの快復と、開運法を啓蒙しております。 その根源は、動蛋白摂取を一切止めて、血液を奇麗にするために穀物菜食主義で長寿を全うし、開運をはかるということを究極の目的において、活動をしております。 昨今は、テレビなどもグルメ番組の情報過多の時代にあり、氾濫する情報は食への偏りを益々大きくしています。そして一方、こうした偏重食品は、健康に破綻を生じさせるという由々しき事態を招いています。 食品メーカーは、その殆どが資本主義の市場経済の流通システムに販売戦略が設定されているため、多くはご都合主義で企画・運営されています。 化学薬剤主体のインスタント食品やファーストフードの氾濫する現実は、人間に害を齎しても、利に与する事は決してありません。 また医療においても同様であり、不自然な化学薬剤主体の最先端医療技術が投入されていますが、こうした医療技術で目先的に、あるいは一時的に好影響は齎したとしても、長い目で見た場合、必ずしも持続するものではなく、結局は躰の自然性を著しく損ない、結果的には五年以内で人体を滅ぼす禍根の元凶となっています。 肉食偏重が如何に危険であるか、本ページでは繰り替えし述べております。 それは食肉こそ、血を汚す元凶だからです。その結果、多くは発ガンするという現実を見ても一目瞭然です。 反対に、血液を奇麗にし、食革命を徹底すれば、いつ迄も健康で長寿を全う出来るという真理も絶対に見逃すことはできません。 それは玄米を中心にした穀物菜食主義に徹し、これを生涯押し通すことが、健康にも繋がり、開運にも繋がるという、多くの実例が、この事実を裏付けしています。 最後に、本ページをご覧くださいました方々の健康と長寿をお祈りしつつ、「癒しの杜の会」の、心よりのメッセージとさせて頂きます。
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